ショッピングモールは下流化の象徴じゃない 東浩紀×大山顕「これは世界統一の文法だ」
週末に家族であるいはカップルで出掛ける定番の場所といえば、ショッピングモールだ。買い物だけではなく食事やレジャーまで。まさにショッピングモールは日本人の生活に欠かせなくなった。一方で、「軽薄な大衆消費」と「コミュニティ荒廃」の「象徴」とされ、長らくまともに議論をされることがなかった。
しかし、ショッピングモールの乱立は止まらず、海外でも、あらゆる施設が「ショッピングモール的」につくられている。私たちは、ショッピングモールに何を求めているのか? 作家・思想家の東浩紀氏とフォトグラファー・ライターの大山顕氏の対談をまとめた『ショッピングモールから考える』(幻冬舎新書)の一部を抜粋し、ショッピングモールから、変貌する人間の欲望を読み取ろう。
新しいコミュニティ、新しい開放性、新しい普遍性
東浩紀(以下、東):まずは、なぜショッピングモールをテーマにしようと思ったのか。一言で言うと、「新しい公共性を考えるため」です。
ではもう一歩踏み込んで、なぜ新しい公共性を考えるのかと問われれば、それは従来の「軽薄な消費者(=資本主義)」と「まじめな市民(=共同体主義)」という構図に限界を感じているからなんですね。資本主義とは切り離された「市民」なるものが現実に存在するのか。むしろ市場の軽薄さを前提に、それをどう公共性に結びつけていくのかを考えるべきではないのか。『一般意志2・0』(講談社)や『福島第一原発観光地化計画』(ゲンロン)での議論も、同じ問題意識から出発しています。
さらに平たく言うと、商店街の「顔が見える関係」が老人や障害者にやさしいといわれますよね。でも逆にそれは、子育て世代やニートにはキツい環境なのではないのか。そういう疑問が出発点にあります。ファミレスやコンビニ、ショッピングモールのような商業施設のほうがはるかに便利だろうと。これは実体験にも基づいています。
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