話をもとに戻そう。つまるところ、例題1の答えは何なのか。誤解を恐れずに記せば、およそ以下のようになろう。
歯切れの悪い答えかもしれない。でもそれで十分なのではないか。この種の問題で評価の対象として見られているのは、回答に至るプロセスである。同時にコニュ二ケーション能力も測られていることを考え合わせると、「沈黙」だけは避けねばならない。自らがどう考えているかの過程は、面接官とのやり取りを通じ示すべきなのである。
「傍観者」を危険内空間に引きずり込むのは許されない
さて、一方の例題2に関しては、例題1の考察の延長線上で考えを展開させることができる。
電車に乗る200人の乗客も2人の作業員も、当初「危険内空間」「危険外空間」に存在するという違いはあるにせよ、多かれ少なかれ共に危険な状況に置かれていることはすでに述べた。2本の線路にまたがる転路器(ポイント)によりその命運が分かれているだけで、猛烈なスピードで暴走する貨車は、まさに彼らに向かい突進しているのである。いわば両者は当事者空間に身を置いているのだ。
ところが、跨線橋から第三者として暴走貨車をながめる太った男は、いわばこれから起きるであろう悲劇を見届ける観客にすぎない。背後から、何者かに突き落とされなければ、彼は「危険内空間」に足を踏み入れるようなことはない。つまり彼は、「当事者空間」に隣接しているだけであって、その空間には所属していないのである。
多くの人命を救うためであれ、傍観者を危険内空間に引きずり込むことは許されず、太った男を線路に突き落とし殺すことは回避されねばならない。もちろん、「塩狩峠」に登場するキリスト者・長野政雄のような信念で、太った男が自ら決定して身を投げ出すことは止められないが。
例題2の当否については、エドモンズの原著に目を通すと、トマス・アクィナスの2重結果理論(The Doctrine of Double Effect)という原理による回答が紹介されている。しかし、ここでは専門的内容には踏み込まない。回答としては、今述べた程度の論が展開できればいいのである。
先にも述べたように、沈黙すること、応答できなくなることは御法度である。むしろ、顔を紅潮させ、汗をかきかき、一つひとつ必死に答える姿は、好感のもてるものなのである。
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