大勢を占めたのは、まず例題1では「転轍手の行為は許される、致し方ない」というもの。これに対し、例題2では「この太った男を線路に突き落とし、殺すことは許されない」という回答だったのである。
ただ、なぜそのように考えるのか理由を問いただすと、多くの受験生が「詳しく説明することはできない」「なぜそう考えるのかは自分でもよくわからない」「なんとなく直感的にそのように感じた」というのだ。
ドイツの学者ハンス・ヴェルツェルの論文からヒントを得て作成した例題1と、マイケル・サンデル「Justice:What's the Right Thing to Do?」やデイヴィッド・エドモンズ「Would You Kill the Fat Man?」で紹介されている例題2は、高校生・浪人生に出題する問題としてはややハードルが高いのかもしれない。
しかし、医師を目指す生徒たちに問いかける問題としては、それなりに意味がある。なぜなら、本問は医師の能力・資質を探るのに適していると考えられるからである。
「命」は数量化することができるのか
私は医師に必要な能力・資質として「公共性・公共心」と「利益衡量能力」という2つを最優先に掲げている。前者は医師を社会的・公共的存在と位置づけ、公の利益のために自ら働きかける性質のことを指している。そして後者は、目の前で複数の価値・利益が衝突している場合、それぞれの価値・利益を比較し、最善の道を選択する能力を指す。
その意味から、私は前述の2問で、受験生にこの2つの能力・資質が備わっているかどうかをさり気なく問うてみたのである。
まず例題1が難解なのは、「命」はそもそも数量化することができるのか、比較が可能なのかが明瞭ではないからである。本問では100人の命と2人の命が比較の対象となっている。普通に考えれば100人の命は重そうだ。しかしながら、人の命を人数により比較すること、つまり多数の命と少数の命はどちらが重いのかを比較することは、たやすいことではない。
では私たちは、このケースで、いったいどういう行動をとるべきだろう。もし、この転轍手と同じ行動をとるべきだと考えるならば、そこには、2人が死ぬほうが100人が死ぬよりマシである、だから転轍手の行為は褒められたものだという比較衡量が内在しているであろう。
この場合は、功利主義という原理に従い結論を導いていることになる。功利主義の提唱者ベンサムは、「最大多数の最大幸福」をすべての基準とし、この基準に合致していることを正しいとしている。
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