例題1にこれを適用すると、この駅周辺の危険にさらされた空間で、100人の命が救われ2人が死亡したのだから、社会全体としては差し引き98人のプラスであり、幸福の数量は多いということになる。社会の幸福の総和という視点からは、めでたし、めでたしである。
だが、本当にそうだろうか。もう少し考えを進めれば、2人の尊い命は救助されるべき、との立場を支持する主張も考えられるだろう。
一つの視点として、電車に乗る多数の乗客は、そもそも死の因果の中に浸かっており「危険内空間」にそのままにしておけばいいとの考えがあろう。転轍手の行為がなければ、乗客のうち100人は「因果の流れに従い」死ぬ運命にある、ということを重視する立場だ。
一方、引込線で作業する2人の労働者は、確かに危険な状況に直面してはいるものの、当初から死の因果の流れにどっぷり浸かっているわけではない。すなわち、転轍手が手心を加えなければ「危険外空間」に存続し続けることも可能なのである。にもかかわらず、転轍手の行為により一瞬にして彼らは「危険内空間」に導かれてしまったのだ。つまり、2人の命は、転轍手の行為により否定されたのである。
「医学研究の倫理原則」にはこう書かれている
また、そもそも「命」とは何かという視点に着目するのもよいだろう。命というものの性質を考察するうえで目を引くのは、この社会・世界で命について、すでにいくつかの見方が提示されているということだ。
その一つに、命を数としてとらえるのではなく、一人ひとりの命が重いのだという指摘がある。1948年の最高裁判決は、人間の命について「全地球よりも重い」と述べているし、一人ひとりの人間の命の重さで言えば、本問とは状況設定が異なるが「ヒトを対象とする医学研究の倫理原則」ヘルシンキ宣言の記述に、参考になる以下のような言葉がある。
抽象的な記述なのでイメージがつかみにくいだろうが、つまりは「1万人の人々を救える新薬を開発するためであろうと、被験者に命の危険が伴うような臨床試験をなすことは許されない」ということではないだろうか。宣言に示された被験者の福利とは「被験者の幸福と利益」のことで、平たく言えば、被験者の命と健康のことだろう。
新薬が開発され、その知見を基礎とし、さらに科学は発展する。そして、多くの人々の命が救われることは、確かに科学的・社会的利益に結びつく。しかしながら、そのために1人の尊い人間の命・健康が犠牲となってはならないということが、ここに示されているのである。
2つの条文は「公共性」「公共の利益」の追求と「個人の人権の尊重」という2つの価値を対峙させる形で示されているのだ。多数の命と少数の命のどちらが優先されるべきかの問題と、どこか類似していないだろうか。
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