出版社への「飛び込み」が作家への道を拓く 黒木亮もきっかけは「飛び込み」だった
それから小説を書き始めた。小説という表現方法を選んだのは、現役の会社員としてノンフィクションを書くのはいろいろと差し障りがあるからだった。
その後の約4年間、仕事のかたわら短編や長編を書いていくつかの新人賞に応募したが、一次選考をかすりもしなかった。下読みをする文芸編集者やフリーランスの人たちは経済に馴染みがないので、経済用語が出てきた時点で、わたしの原稿をゴミ箱行きにしていたらしい。
デビュー前夜
39歳のときから約2年間、縁あって日本の証券会社の駐在員事務所長としてベトナムのハノイに駐在した。かの地では、見る物、聞く物すべて新鮮な驚きで、これは是非とも小説にしたいと思った。日々の出来事を毎日パソコンで書きため、ベトナムでの勤務を終えてロンドンに戻ってから一年間ほどかけて原稿用紙約500枚の小説を書き、5、6社に原稿を送った。
前向きの反応があったのは、準大手の祥伝社だった。山田剛史という20代後半の編集者が電話で「あなたの作品は凄く面白い。しかしあなたは無名だし、ベトナムがテーマではバックパッカーしか買わない」と言ってきた。私が「無名だと本が出せないと言うなら、いつまでもイタチごっこで、永遠に本が出せないことになる。いったい何を書いたら本が出せるのか?」と国際金融流で切り返すと、「あなたは国際金融マンだから、国際金融のことを書いて下さい。面白いものを書いてくれたら、うちは大きくデビューさせます」と「大きく」に妙に力を入れて言う。
あとで聞いたのだが、祥伝社は当時、服部真澄氏のデビュー作「龍の契り」が単行本だけで10何万部ものバカ売れをし、それを文庫化してまた儲かっていて、別の新人もちょっとはやるかという雰囲気だったらしい。「大きくデビューさせます」というのは、山田氏の願望と法螺が半々だった。
双葉社の杉山という年輩の男性編集者も便箋5枚の手書きの手紙をくれた。出せるか出せないかは分からないが、ベトナムのことだけでは魅力に乏しいので、他のアジア諸国やアジア通貨危機のことを書き込んだらどうかと言ってきた。私は、出せるかどうか分からないんじゃ仕方がないと思ったが、作家になってから、編集者が新人に対して書き直してほしいと言ってくるときは、本にして出したいと思っているのだと知った。
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