「原子力ムラ」を生きた東電・吉田昌郎の功罪 その生涯を追って見えてきたもの<前編>
日本の原発発展史と重なる、その生涯
愛国心の名のもとに、幾多の人が死んでいった戦争から、25年経った今、またもやその言葉が用いられるようになった。安全保障条約や沖縄問題・北方領土問題をつきつめていくと、必ず出てくる問題、それが愛国心だ。では、愛国心とは何なのだろうか。愛国のために、人間が死んでいってもよいものなのだろうか。
集団的自衛権や尖閣諸島という言葉を入れれば、そっくり現代にもあてはまりそうなこの作文を書いたのは、東電福島第一原発の所長だった故吉田昌郎氏である。中学3年にしては早熟なこの文章を書いたとき、41年後に自らの愛国心を顧みる余裕もないまま、修羅場に立ち向かう運命を背負わされているとは、むろん知る由もなかった。
私は、福島第一原発事故でリーダーシップを発揮した吉田氏が、どのような環境と時代を生きたのかに興味を持ち、2年間の取材を経て、今般『ザ・原発所長』を上梓した。吉田氏は、サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復した1952(昭和27)年から3年経った1955年2月生まれで、その生涯は、日本の原発発展史と軌を一にしている。
福島第一原発事故の記録を読んで感じるのは、吉田氏のリーダーシップとユーモア、そして芯の強さである。「限界なんていうなよ。俺たちがやらないと誰もやる人間がいないんだぞ」と叱咤したかと思うと、「それ、大、欲しいです!」と冗談まじりで本店とやり取りをする。誰もが怯えた菅首相に対しては一歩も退かなかった。
リーダーシップは一人っ子ゆえの我の強さ、ユーモアは吉本新喜劇、芯の強さは大阪の商業地区の厳しい躾からきているようだ。この3つの特質は彼の生涯を通じて見られる。
大阪のミナミのすぐ東側に松屋町筋という、菓子、玩具、紙器などの問屋や小売店が軒を連ねる商店街がある。米軍の爆撃で一帯は大半が焼失し、今でも路地や長屋や地蔵の祠が多い。吉田氏が通った金甌(きんおう)小学校の地下には、立ち入り禁止の防空壕跡があった。近くの空堀商店街は、江戸時代から続く活気に満ちた庶民の市場である。子どもの躾は、どこの家庭も大阪商人流で非常に厳しく、大人たちは、よその家の子どもでも遠慮なく叱り付けていた。
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