「原子力ムラ」を生きた東電・吉田昌郎の功罪 その生涯を追って見えてきたもの<前編>

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高校時代、学年180人中20番くらいの成績だった吉田氏は、現役で東京工業大学に合格し、学部で機械物理学、大学院で原子力工学を専攻した。入学と同時にボート部に入部し、一年の大半を埼玉県戸田市のボートコースそばの合宿所で寝起きするようになる。

吉田は目立ちたがり屋で、図々しい奴なんですよ(笑)。ムードメーカーで、関西弁でワーッと盛り上げていく。先輩に対してもずばずば物をいう。後輩に対しても威圧的に出ているという感じではない。だから上下関係がすごく上手くまとまる。彼が入ってきて、合宿所の中の風通しががらっとよくなった。ただ非常に神経の細かい奴だなというのは感じました。周りに気を使いながらやっているなという。

――東工大ボート部の先輩の吉田氏評

 

その頃、2人の東北大学ボート部OBが東工大の指導をするようになった。ローマ五輪のエイト(8人漕ぎ)代表の佐藤哲夫と、五輪代表となった東北大学チームのサブ・コーチを務めた島田恒夫である。それぞれ石川島播磨重工業(現・IHI)と東京ガスに勤務する会社員だったが、土日は合宿所に泊りがけでやって来るなどして献身的に教え始めた。

この2人の指導を通じ、東工大の選手たちは、ボートに限らず、一流になるには何が必要かを学んだ。吉田氏はエイトの漕手として、大学2年のときに全日本学生選手権に準ずるオックスフォード盾レガッタで活躍した。その後腰を痛め、主に後輩の指導や相手チームの情報収集役を務めながら、4年間の部員生活を全うした。

東工大ボート部は格別のものだった

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東工大ボート部はその後も着実に力をつけ、1985年に全日本軽量級選手権(漕手の平均体重が70キログラム以下かつ最重量者が72.5キログラム以下)で初の日本一に輝き、翌年は、アジア大会派遣選考会(2000m)の予選で5分52秒29の日本最高記録をマークした。

その日、戸田のボートコースに駆け付けた東電入社8年目の吉田氏は、日本最高記録を喜び合うOBたちに、「皆さん、勝って兜の緒を締めよですよ」と戒め、選手たちを激励すべく、大きな背中を見せて合宿所のほうに駆けて行ったという。決勝で東工大は3位に終わったが、後輩たちの躍進は、その年4月に起きたチェルノブイリ原発事故で重苦しかった吉田氏の心をひと時だけでも晴らしたはずである。

吉田氏にとって東工大ボート部は格別のものだったようで、卒業後もこまめに試合やOB会に顔を出し、2013年7月に亡くなった後のお別れの会や法要にも、ボート部仲間が顔を揃えた。彼らは吉田氏を偲んで「吉田メモリアル漕艇会」を時おり開いており、直近は去る7月11日に横浜市の鶴見川ボートコースで開催された。

(後編は8月12日に掲載します)

黒木 亮 作家

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くろき りょう / Ryo Kuroki

1957年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒、カイロ・アメリカン大学(中東研究科)修士。銀行、証券会社、総合商社に23年あまり勤務して作家に。大学時代は箱根駅伝に2度出場し、20キロメートルで道路北海道記録を塗り替えた。ランナーとしての半生は自伝的長編『冬の喝采』に、ほぼノンフィクション の形で綴られている。英国在住。

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