「原子力ムラ」を生きた東電・吉田昌郎の功罪 その生涯を追って見えてきたもの<前編>
当時の小学校は土曜日も午前中授業があり、子どもたちは放課後一目散に帰宅して毎日放送で吉本新喜劇を観るのが慣わしだった。岡八郎、花紀京、西川ヘレンらが演じるどたばた劇で、本音を笑いに包んでしっかり伝える大阪流の話術を覚えるのである。3・11の危機のさ中、ヘリコプターで福島第一原発に駆け付けた東電の技術者を迎えた吉田氏の第一声は「あーら、○×さんじゃ、あーりませんか」という、チャーリー浜のギャグだったそうである。
吉田氏の父親は地元で商品・営業企画の会社を経営し、カメラが趣味だったという。両親とも上品な人柄で、一人息子の吉田氏のために、同級生やその親に「うちの昌郎と遊んでやって下さい」とよく頭を下げていたそうである。息子の教育には人一倍の情熱を注ぐ一方、高価な玩具も買い与えていた。小学校の同級生によると、吉田少年は非常に勉強ができ、親分肌で、自分の意見を押し通す性格だったという。
父親は、平成の中頃に仕事を引退し、地縁も血縁もない鹿児島県の霧島高原の別荘地に家を建て、夫婦で移り住んだ。近くに温泉があるとはいえ、ちょっとした買い物にも車が必要な山の中で、父親はタクシーの運転手におぶわれて病院通いをしていたという。一流企業で出世街道を歩く一人息子に、面倒をかけたくないと思っていたのかもしれない。
吉田氏が小学校に入学したのは1961(昭和36)年だった。その前年に日本原子力発電(株)が、日本初の商業用原発・東海発電所1号機の建設に着工し、1966年に営業運転を開始した。小学校卒業2カ月前の1967年1月には、東京電力福島原発(のちの福島第一原発)1号機の建設が着工された。敷地は海から約30mの高さに切り立った荒漠たる原野で、東電の社員たちは、マムシやシマヘビ退治から始めた。
生徒が何をやっても叱らないユニークな高校
1967(昭和42)年に、吉田氏は難関の大阪教育大学附属天王寺中学に進み、1973年に同高校を卒業した。生徒の自主性を重んじ、受験勉強はさせず、生徒が何をやっても叱らないというユニークな学校である。吉田氏の同級生が授業をさぼって喫茶店でたむろしていて教師にばったり遇い、さすがに叱られると思ったら、コーヒーをおごってもらったというエピソードもある。吉田氏は「iPS細胞の山中伸弥は同じ高校なんだぞ。でもオウム真理教の菊池直子もなんだよなあ」と笑っていたという。
同級生から見た吉田氏は、面白くてひょうきんだが、人を引っ張っていく力があったという。お坊ちゃんと見られることに反発してバンカラに振る舞い、曲がったことや、逃げるのが嫌いで、大阪環状線でガラの悪い高校生から逃げず、殴られて歯を折られたこともあった。学園祭のファイヤーストームではバケツを叩いて掛け声をかけて回り、クラス対抗ラグビーでは実行委員として奔走した。昔から協調性のある人柄だった。
当時は、科学技術時代の幕開けだった。1969年にアポロ11号が月面着陸を果たし、1970年に大阪で開催された万国博覧会の会場では、関西電力美浜原発の電気が原子の灯を点した。翌1971年には東京電力福島原子力発電所(のちの福島第一原発)1号機が営業運転を開始した。大阪教育大学附属高校では、浅野という地学の教師が「きみたちは(講談社の)ブルーバックスを読まなあかん」と力説し、理系志望の生徒たちは、競うように『物質とはなにか』『相対性理論の世界』といった同シリーズの本を読む“ブルーバックス世代”だった。
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