その母はもともと、留学生として日本にやってきた。1990年のことだ。日本語を磨き、食品関係の会社でアルバイトをしていたのだが、そこの社員だった父と出会った。
やがてふたりは結婚し、なっちゃんを授かるのだが、出産はタイだった。日本語だけでなく、タイ語やタイの文化も身につけてほしいという母の思いがあったからだ。祖母や叔母に囲まれて育ったなっちゃんは「猿みたいにヤンチャな子だった」そうだ。
「家の中を走り回って、男の子みたいだった」
日本の小学校にはすぐになじめた
当時から元気いっぱいだった彼女は首都バンコク西部のピンクラオという街で成長していくが、7歳のときに日本へやってきた。
「はじめは緊張しました。だって転校生って、最初に全校生徒の前であいさつするんですよ。700人くらいいたのかな。そこで『タイから来た小林ポンティップ』ですって」
その瞬間、生徒たちはザワついた。当時はまだあまり聞き慣れないカタカナの名前のインパクトがあったのか、すぐにみんなに覚えられ、違う学年の子からも「あ、ポンティップだ」なんて言われたりもした。「ガイジン、ガイジン」といじめられることもあった。
「でも、ドッジボールに誘ってくれたり、優しく話しかけてくれる子もいっぱいいて、すぐに友達もできました」
はじめのうちは日本語がわからず、授業中はボランティアの女性が横につきっきりで教えてくれた。それにタイの社会や大家族が育んでくれた明るさや社交性もあったのだろう、すぐに言葉を覚え、日本の暮らしになじんでいった。



















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