タモリの半生には日本戦後史が詰まっている 糸井重里と近藤正高が語り尽くした!

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糸井:本のなかで「(60年代)当時の大学卒は全体の15%くらいだったらしい」という(「ほぼ日刊イトイ新聞」での)僕の発言も引用されていたけど、85%の人が大学に行かなかったっていう時代の景色をみんな描けないんですよ。メディアにかかわっている人は、自分も周囲も大学に行った人ばかりなんで、あたかもあの時代にみんなが大学行って、学生運動をやってたみたいに描写しちゃうんですね。

近藤:目立つ現象ばかりが現代史になる。

糸井:だから、その円グラフの面積の大きい(大学に)行ってない人について書けないと、タモリさんの話はできないですよね。……というところがやっぱりいちばん感心しました。

元祖「タモリ論」

『タモリと戦後ニッポン』近藤正高・著講談社現代新書/税別価格: 920円

近藤:糸井さんはデビュー当時のタモリさんをライブでご覧になってるんですよね? 音楽誌『ミュージック・マガジン』にレポートを書かれていますが。

糸井:それは『タモリと戦後ニッポン』(の「はじめに」)でも引用されてましたが、僕はいつの時代のタモリさんを見てるんですか?

近藤:レポートが載ったのが1976年4月号、ライブ自体は2月なので、タモリさんが(1975年夏に福岡から)上京して半年とかそれぐらいのころですね。まだ赤塚不二夫さんのマンションに居候していたはずです。

糸井:自分が27~28歳ぐらいのときですね。僕、神父のモノマネとか、番組名は何だったのかわからない時代のタモリさんもテレビで偶然見てるんですよ。だから、思えば結構早くから見てたなって。

近藤:初期にタモリさんがやっていた神父にしても、NHKや北京放送のアナウンサーのモノマネにしても、ネタにする対象がそれまで誰も気にもとめなかった「フツー」から選ばれている。それは(米国の画家の)ウォーホルがキャンベル・スープを描いたのと同じくらい偉いことだと、『ミュージック・マガジン』で糸井さんが書いていたのはすごく腑に落ちました。タモリさんの初期の芸の本質を的確に言い表してますよね。

タモリさんについては、周りにいた山下洋輔さんや高平哲郎さんなんかがもちろん早くから書いてるんですけど、身内ではない第三者の視点でタモリさんを論じられたのは、たぶん糸井さんが最初じゃないでしょうか。「タモリ論」の元祖といっていいと思います(笑)。

糸井:でもこのライブ、誰に誘われて行ったか覚えてないんですよね。

近藤:そうなんですか。ライブ自体はどこでやったんですか?

糸井:「ロブロイ」っていう店です。南青山からキラー通りって呼ばれていた坂を下りて西麻布のほうに行きますよね。そうすると台湾料理屋が……まだ潰れてないかな、ラーメン屋があるんです。で、そこの並びのどこかの地下に下りたところにそういう店があったんです。そこは、高校生だった矢野顕子が(ピアノを)弾いていた店でもあるんですけど。

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