【朝ドラ】やなせたかし「ライバルたちが活躍」も取り残されて…居たたまれない夜に誕生した"名フレーズ”とは?

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

重役に退社を伝えると「三越はいい会社だぞ。波風たてずに勤めていれば安楽に暮せる」と慰留されるが、やなせは「もう決心しましたから、永い間お世話になりました」と頭を下げている。退社の決意が揺らぐことはなかった。

「安全第一」で始めたフリーランス生活

34歳にしてフリーランスで生きていく道を選んだ、やなせたかし。妻の暢はこう言ってくれたという。

「なんとかなるわ、収入がなければ私が働いて喰べさせてあげる」

何とも頼もしいパートナーだが、やなせが性格的に冒険できるタイプではない、ということもよくわかっていたので、そこまでの不安はなかったのではないだろうか。会社員をしながら、副業にも励んだおかげで、資金にも余裕があったようだ。

「新宿区荒木町十五番地の四十二坪の借地に二階建の家を建て、ちゃっかり電話もひいて、さてこれでよしというところで退職した。 背水の陣の悲壮感はまるでなかった。ここが情ないところで、安全第一、無謀なことはしない、借金もしない。二人でせっせと貯金して、身分相応ぐらいのちいさな家を建てた」

ニッポンビール(現在のサッポロビール)のCMの仕事など、定期収入もきちんと確保していた。連載も多く抱えて、生活していくには十分である。はたからみれば、順調そのものだったが、やなせはこんな思いを抱えていた。

「ぼくはポツンと取り残されていて、華やかな一群の後方はるかに置き去りにされた。漫画集団員になっていて、大小あわせて二十五本の連載をもっていたが、中心になるものがなかった」

つい気になるのは周囲の活躍だ。岡部冬彦は「アッちゃん」、根本進は「クリちゃん」、小島功には「仙人部落」……。ライバルたちはヒットを飛ばして、「この人ならこのマンガ」という代表作を持っていたが、やなせにはそういう作品がまだなかった。

どちらかというと細かい仕事をこなしながら、大物漫画家の原稿が間に合わなかったときには、ページを埋めるマンガを手早く描いた。「困ったときのやなせさん」と編集者からありがたがられたが、「このままでいいのか」という思いが常にあったようだ。

さらに、ある漫画家の台頭によって、漫画のジャンル自体も大きな変革を迎えようとしていた。「マンガの神様」とも呼ばれた手塚治虫である。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事