【べらぼう】「発想力は他人が到底及ばない」と蔦重を絶賛した、頼れるパートナーの宿屋飯盛とは何者か?

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そんなマルチな才能は少年時代に培われたようだ。和学を津村綜庵、漢学を古屋昔陽に学び、狂歌については岸文笑(頭光)に師事した後に大田南畝(四方赤良)のもとで、研鑽を重ねている。文笑らと狂歌サークル「伯楽連(はくらくれん)」を主宰。狂歌界で頭角を現した。

一方で、蔦屋重三郎は狂歌ブームを受けて、天明3(1783)年3月に、元木網編の狂歌作法書『浜のきさご』を刊行。狂歌を自分でも詠んでみたいという人が多かったのだろう。初心者に最適の狂歌の手引き書として、大きな反響を呼んだ。

蔦重自身も「蔦唐丸」(つたのからまる)と号して狂歌師になり、交流イベントを積極的に仕掛けた。狂歌を詠み合って盛り上がる場を提供しながら、そこで生まれた作品を木版印刷による摺物や冊子というかたちでまとめる……というのが、蔦重の出版スタイルのひとつになっていた。一冊にまとめられると思うと、狂歌師たちも作品作りのモチベーションが高まったに違いない。

あるときには「百物語になぞらえて化け物題の狂歌を順繰りに百首詠み合う」というユニークな狂歌会を、蔦重は主催している。そこで出た作品をまとめたのが狂歌集の『狂歌百鬼夜狂』(きょうかひゃっきやきょう)である。序文を書いたのは大田南畝で、天明5(1785)年に出版されている。

この狂歌会に参加したのが、平秩東作・紀定丸・唐来三和・四方赤良・山東京伝・算木有政・今田部屋住・頭光(つぶりひかる)・馬場金埒・大屋裏住・鹿都部真顔(しかつべのまがお)・土師搔安・問屋酒船・高利刈主、そして、宿屋飯盛である。

蔦重による「絵本狂歌」で編纂を任された

このときには、すでに蔦重と飯盛はともに仕事をする仲だった。同じく天明5(1785)年に飯盛編の狂詩本『十才子名月詩集』(じっさいしめいげつししゅう)を刊行すると、それを皮切りに、翌年の天明6(1786)年には『天明新鐫五十人一首 吾妻曲狂歌文庫』を刊行。これは著名な狂歌師50人の図像と狂歌を取り合わせた「狂歌絵本」で、蔦重からその編纂を任せられたのが、飯盛だった。画工は北尾政演こと、山東京伝である。

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