天明7(1787)年には『古今狂歌袋』(画:北尾政演)と『画本虫撰』(画:喜多川歌麿)を蔦重は世に送り出しているが、やはり編纂は飯盛に依頼している。それだけ信頼していたのだろう。
狂歌絵本は、狂歌師・編者・画家・版元が一体となって制作された、いわば「江戸時代の総合芸術」とも言えるジャンルである。とりわけ『画本虫撰』(えほんむしえらみ)は、大きな話題を呼ぶこととなった。
この時期の蔦屋重三郎は、大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴、北尾重政、鍬形蕙斎、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽など多数の戯作者・浮世絵師の作品刊行に携わっており、宿屋飯盛もその中心人物の一人であった。
狂歌絵本の刊行によって狂歌師としての地位を不動のものにした、宿屋飯盛。天明末年には鹿都部真顔、銭屋金埒(ぜにやの きんらち)、頭光らとともに「狂歌四天王」と呼ばれた。なかでも飯盛と真顔はその作風の違いから、しのぎを削るライバル関係にあり、狂歌会を大いに盛り上げることになった。
蔦重の理解者でその墓に人間性を刻む
宿屋飯盛は、蔦重の人となりを最もよく知る人物の一人でもあった。蔦重の死後、蔦重の墓に「喜多川柯理墓碣銘」の撰文を行い、次のような碑文を残している。
「志気英邁にして、細節を修めず、人に接するに信を以てす」(為人志気英邁 不修細節 接人以信)
つまり「大きな志を持ち才知に優れて、度量の大きさから細かいことにこだわらず、人間関係では信義を尊重した人物」だと評した。
さらに飯盛は、出版人としての蔦重についても、次のように記した。
「其の巧思妙算、他人の能く及ぶところにあらざる也。ついに大賈と為る」(其巧思妙算 非他人所能及也 遂為一大賈)
発想力や先を見通す力においては、他人が到底及ぶものではなく、ついに事業が成功して、大商人となった――。飯盛は蔦重をそんなふうに絶賛している。
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