「Netflixのヒットをなぞる作品が量産される」「“聖人君子”の俳優に“目が離せない芝居”ができるのか」オダギリジョーが語る“縛りだらけ”の時代

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皆が数字を気にしながら「正解」を目指すと、作品はどこまでも“井の中の……”に閉じこもってしまう。それって、すごくもったいないですよね。もっと“ズレ”とか“とがり”のある作品があってもいいし、観たあとに今まで気づきもしなかった価値観との出会いが生まれにくくなっている気がします。

もちろん、配信がもたらす恩恵は大きい。でもそれと引き換えに、創造性が削られてしまっては意味がない。だからこそ、その構造に無自覚でいてはいけないと思っています。

「稼ぐ場所」と「表現する場所」を分けた理由

――以前「お金はテレビで稼いで、やりたいことは映画でやる」とおっしゃっていたのが印象的でした。

オダギリジョーさん
(撮影:長田慶)

それは、若い頃に言っていた言葉ですね(苦笑)。まだテレビにもある程度制作費があった時代で……10年、いやもっと前かもしれませんね。

映画って、出資を募って、美学を追求する勝負の世界なんですよね。本気でやりたいことができる反面、それが“お金になる”とは限らない。でも僕は、そういう不確実さやリスクを抱えながらも、自分の表現を追い求める映画の現場に、やはりロマンを感じていたんです。

一方でテレビドラマは、スポンサーがいて、決められた枠組みの中で作品をつくる。“土俵が整っている世界”とでも言えばいいでしょうか。予算も決まっているから、その中で何ができるか最善を尽くすという構造です。それはそれで面白いんですが、映画とは、根本的に“作り方”が逆なんです。

――安定と挑戦、それぞれの現場に異なる魅力と意味があるということですね。

やりたいことが明確にあるなら、映画で勝負するべきだし、ある意味実験的なことを試せるのは、すでに予算があるテレビドラマなんですよね。それは結局、結果よりも「何を表現したいか」が問われる違いなんだと思います。

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