「Netflixのヒットをなぞる作品が量産される」「“聖人君子”の俳優に“目が離せない芝居”ができるのか」オダギリジョーが語る“縛りだらけ”の時代

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――確かに、俳優という存在が“整えられて”いる印象はあるかもしれません。

オダギリジョーさん
(撮影:長田慶)

そうなんですよね。教科書に書いてあるまじめな演技も良いんですが、俳優自身に“揺れ”や“危うさ”がなければ、芝居にそういったニュアンスは絶対に乗りません。結果的に見たことのない芝居や、眼が離せないような芝居は生まれないでしょう。現代の俳優は、そうした挑戦しにくい環境に置かれているように思います。

でも、それでもなお、表現者は“怖さ”を超えて挑み続けるべきだと思うんです。誰にも予測できず、心をざわつかせる芝居を求め続けること――それが、俳優に科される使命だと思います。

時代に合わせながらも、自分の中の豊かさを削らずに、むしろ荒波に飛び込み、表現し続けるべきだ。そう思っています。

「数字の正解」に縛られたら、作品は面白くなくなる

――作品が届く“距離”という意味でも、テレビから配信へと時代は大きく変わりました。日本の作品が世界に届きやすくなった今、この変化をどう感じていますか?

オダギリジョーさん
(撮影:長田慶)

自分自身、配信ドラマに多く関わっていないし、配信制作の裏側に詳しいわけでもないんですが……それでも“配信時代”の落とし穴のようなものは感じています。

たしかに、世界中に作品を届けやすくなったのは素晴らしいことです。でも一方で、配信のプラットフォーム内では「数字が取れる作品」こそが“正義”になっていく流れもありますもんね。

――つまり、作品がアルゴリズムに先導されてしまうような?

まさにそうだと思います。数字をもとに「これがウケる」と分析されると、それをなぞるような作品が増えていく。Netflixで当たった作品の要素を取り入れた似た企画が次々と出てきたり、Prime Videoでも同じような傾向が起こったり。そうやって“ヒットの型”が量産されていくと、近い将来には作品の個性や多様性がどんどん薄れた、似た作品があふれる状態になるのではないでしょうか。

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