世界的な浮世絵師「喜多川歌麿」が蔦屋重三郎と手を組むようになった背景 誰が二人を引き合わせたのか?
もちろん、西村屋が目を掛けていたのは、歌麿だけではありません。歌麿ほどにその名は広く知れ渡っていませんが、浮世絵師・鳥居清長(1752〜1815)も、西村屋から多くの仕事を貰っていました。安永9年(1780)、清長は、西村屋から刊行された黄表紙10種に挿絵を描いています。一方の歌麿は、4種でした。西村屋が清長に寄せる想いの大きさというのが、ここからもわかります。
西村屋は、歌麿には、それほど期待していなかったといってよいでしょう。もちろん、そんなことは、歌麿もよく理解していたはずです。歌麿は西村屋から去ることになりますが、彼が次に接点を持った版元が蔦屋(重三郎)でした。
蔦重と歌麿を引き合わせた北尾重政
両者は、直接知り合ったというよりは、媒介者がいたとされます。その媒介者こそ、蔦屋重三郎と懇意であり、歌麿のもう1人の師匠というべき、北尾重政だったと考えられます。天明元年(1781)、蔦屋から『身貌大通神略縁起』という黄表紙が刊行されます。この黄表紙に挿絵を描いたのが、歌麿と志水燕十でした。

この作品は、歌麿が初めて「歌麿」号を使用したものとして、注目を集めています。天明元年以前に、歌麿は蔦屋重三郎と、北尾重政を介して知り合い、ついには、黄表紙に挿絵を描かせて貰えるまでになったのでした。
歌麿が1753年生まれだとすれば、この時(天明元年=1781年)、28歳でした。それまで使用していた「豊章」という名乗りを捨てて「歌麿」を名乗ったことからも、新たな気持ちで活動しようという彼の意気込みを感じることができます。
(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
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