世界的な浮世絵師「喜多川歌麿」が蔦屋重三郎と手を組むようになった背景 誰が二人を引き合わせたのか?

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しかし、天明8年(1788)頃になると、狂歌絵本の作者から、政演(京伝)の名は消えていきます。それは、京伝が黄表紙の執筆のほうに力を入れていくことになったためと考えられます。

蔦屋から刊行される浮世絵の作品に政演の名が見られなくなるのと入れ替わるように、頻繁に名が登場してくるのが、現代に至るまで有名な浮世絵師・喜多川歌麿です。

歌麿はその名が有名な割に、謎が多い人物。例えば、生年もはっきりしたことはわかっていません(1753年生まれ説あり)。出生地も確定していませんが、江戸の生まれという説が有力です。

歌麿は、幼い時より、烏山石燕(狩野派の町絵師)を師匠として、絵を学んだと言われます。石燕は、宝暦年間に、女形の歌舞伎役者・中村喜代三郎の似顔絵を描き、その額を浅草観音堂に奉納したことから「役者似顔絵の創始者」と呼称されることもあります。

石燕の門下には、歌麿だけでなく、恋川春町や志水燕十もいました。石燕は、絵本や俳諧本に絵を描くことを中心とした活動をしていたようです。

喜多川歌麿の2人の師匠

そんな石燕は、前述の北尾重政と交流がありました。俳諧仲間として、とても親しい関係にあったようです。そうしたことが機縁となったのでしょう、石燕の弟子・喜多川歌麿と北尾重政も関係を深めていきます。そして、歌麿は北尾重政の「弟子同前」(江戸時代後期の画家・朝岡興禎による画人伝『古画備考』)と評されるまでになるのです。つまり、歌麿には2人の師匠がいたと言えましょう。

歌麿が浮世絵師として活躍するに際しては、石燕よりも、北尾重政の尽力があったのではないかと言われています。ちなみに、石燕は『画図百鬼夜行』で妖怪を描いたりもしています。水木しげるも、石燕の作品を参考にしていたとされます。

しかし、石燕は、浮世絵(一枚絵形式の版画作品)の作品は残しておらず、そうしたことから考えても、歌麿に与えた影響は限定的だったようにも推測されます。

歌麿が「北川豊章」の名で、名乗りをあげたのは明和7(1770)年頃のことでした。最初は、役者絵を書いたようです。

歌麿は、安永年間には、黄表紙の挿絵も描いています。その多くは、西村屋(与八)から刊行されたものでした。大手版元の仕事を担えたことは、歌麿にとって、喜ばしいことだったでしょう。

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