明治、大正期にはまだ江戸の名残りを感じられた浅草だったが、関東大震災で街は壊滅的な被害を受ける。その後昭和初期に復興を遂げた浅草には地下鉄が開通し、百貨店などの近代的ビルが建つモダン都市となる。
しかし地下鉄で浅草と銀座がつながったことや、新中間層の台頭で、旧来の盛り場であった浅草よりも、モボ、モガが闊歩しカフェが繁盛する銀座が脚光を浴びるようになった。浅草の人気役者だったエノケンやロッパなども、時代の変化を読んだのか、この昭和初期に、銀座に近い日比谷に誕生した新しい劇場に活躍の場を移している。
その後浅草は太平洋戦争の空襲により再び焼亡。浅草寺の伽藍や雷門も焼け、その復興のために浅草公園の四区にあった瓢箪池を埋め立て、土地を売却した資金で浅草寺本堂の再建費用を捻出した。池のあった場所は六区の東側で、現在はリッチモンドホテルやJRAのウインズなどの立っている場所だ。
こうして情緒豊かだった瓢箪池の水辺の風景を失ったことが、戦後の浅草の凋落の第一歩となったというのは、浅草の古老たちから何度も聞いた話だ。
失われていった下町の求心力
また、戦後の高度経済成長期になると、東京の居住人口は西へと移動し、膨張。鉄道ターミナル駅である新宿、渋谷、池袋などの副都心の盛り場が賑わい、若者たちは新宿や原宿などにナウなファッションや風俗を求めて集まるように。浅草、上野、両国といった下町の求心力は失われていった。



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