今では「1年中お祭り状態」の浅草にも≪戦後の低迷期≫があった。そこから”一大インバウンド観光地”になるまでをアナログ写真で振り返る

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1981年には、都営バスが上野広小路―浅草雷門間を走る二階建てバスの運行を開始。翌年には乗客数が100万人を超え人気を博していたが、やがて乗客数は減少し2001年には営業を終了したそうだ。

(写真:1983年8月9日、吉野純治撮影)
(写真:1974年2月17日、高橋孫一郎撮影)
(写真:1988年2月、東洋経済写真部撮影)
(写真:1988年2月、東洋経済写真部撮影)

今日まで繁栄してきた理由

そんな浅草の街が沈滞気味だった時期も、常に多くの人で賑わったのは、浅草寺への初詣、三社祭、夏のほおずき市、浅草に近い鷲神社の酉の市、年末の羽子板市といった年中行事の場であった。浅草ではそのほかにも、隅田川の早慶レガッタ、歌舞伎の大名跡襲名の際の“お練り”、隅田川花火大会などのイベントが年間を通して開催され、そのたびに賑わう。

こうした一年中、お祭り状態にあるような街であることが、一時期は活気を失うことがあっても、今日まで繁栄してきた理由なのだろう。

1964年の東京オリンピック前には隅田川の浄化対策が始まり、水がきれいになってきたと人々が認識するようになったのは1980年代後半頃。そのバブル期に起きたのが、下町ブーム、ウォーターフロントブームだった。

この頃、浅草、門前仲町、月島などの隅田川沿岸の街が突如トレンドスポットということになり、月島でもんじゃ焼き屋、門前仲町で居酒屋、浅草の老舗の鮨、天ぷら、そば店などを訪ねるといったアクティビティが若者を中心に盛り上がり、屋形船や水上バスに乗っての隅田川や東京湾、お台場での船遊びも人気となった。

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