「最盛期1328人→現在47人」ある限界集落の歴史 「007」ロケ地、鹿児島県南さつま市・秋目の歩み

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石塔や磨崖仏など、鹿児島の石の史跡を共同で巡り調べている窪壮一朗さん、川田達也さんにも話を聞いてみた。

「江戸時代後半の文政12(1829)年に大坂の商人が旅行で秋目に一泊しています。その日記『薩陽紀行』には、宿の主が「琉球行きの者」※だと書いているんです。その頃の秋目が豊かだったのは密貿易のおかげではないかと思います」(窪壮一朗さん)
※当時の密貿易は薩摩から琉球を経由して行われていた。

秋目には漢方医の屋敷跡地が2軒残っている。小さな漁村に漢方医が2軒もあったとは普通ではない。密貿易で潤っていた証拠なのかもしれない。また、富の痕跡は墓石にも見られる。

「秋目に残されている江戸時代の墓石には、多くに高級な山川石が使われていて、細かい装飾まで施されているものもあります。さらに、秋目という町の規模に対して墓石の数がとても多い。むかしはもっとたくさんあったと聞くので、それだけ豊かだったのでしょう」(川田達也さん)

明治時代の秋目は、人口が1328人いたとの記録も残っている。(参考『角川日本地名大辞典46鹿児島』)

 

漢方医・坂本家跡地。立派な石造りの階段を上がった先に、石門と邸宅がある(筆者撮影)

ボンドが潜伏した秋目、その土地のそこかしこに見え隠れする秘密めいた史跡や話が、訪れた人の冒険心を掻き立てる。

食べ物も仕事も、集落で分け合ってきた

最後に、「がんじん荘」に滞在して聞いた中で印象的だった話がある。秋目の集落で暮らすひとりであり、柑橘農家であり、ロックバンド「人性補欠」ボーカルの桑原田健史さんは、仕事終わりに「がんじん荘」にやってきて、同じ集落の漁師・富田照昭さんと一緒に酒を交わす。

「富田さんは漁でキビナゴがたくさん取れたときには、集落放送で呼びかけて、地域のみんなにキビナゴを振るまうんです。その姿に感動して、自分もポンカン、タンカンの時期に少しキズがあるけど味は変わらずおいしいやつを地域の人に配るようになりました。軽トラの後ろにバーっと積んで、広場の前に持って行くと、集落のみんなが袋を持って家から出てきてくれます」

ここでの暮らしは、自分だけでは完結しない。

奥さんは東京生まれ、東京育ち。仕事で上塘さんと知り合って結婚して、東京から秋目へ。環境のまったく異なる土地であるため、結婚するときは周囲から「絶対に逃げ出す、賭けてもいい」と言われたが、賭けに勝ち続けて今もここにいる(筆者撮影)

上塘さんの父が瀬渡しの受付だけを行い、集落の漁師に仕事を振り分けたように、ひとつの仕事を分担して協力し合いながら取り組んできた地域性がある。その精神は、今の時代にも伝わり残っている。

【もっと読む】人口47人・限界集落で盛況する「峠の茶屋」の実態 では、「地域の総合商社」として集落を支える「がんじん荘」の経営について詳しくお届けしている。
横田 ちえ ライター

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よこた ちえ / Chie Yokota

鹿児島在住。WEB・雑誌での執筆のほか、企業のオウンドメディア運営やパンフレット製作など幅広く活動。日ごろから九州を中心に全国あちこちを巡り、取材テーマを模索している。最近特に力を入れているテーマは離島や温泉。

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