もっとも倫子の死後、家治の寵愛を受けたのは、2人目の側室・お品の方だったとも言われている。お品の方は公家・藤井兼矩の息女にあたる。かつて京から江戸に下った倫子に、侍女として付き従った。 大奥で権力を誇った御年寄・松島の養女でもあった。 お知保の方が家基を生むと、同じ年にお品の方は 貞次郎を生むが、 生後3か月後に夭折してしまう。
家基だけは健やかに育ってほしい――。そう願ったに違いないが、安永8(1779)年2月24日、その家基まで死去してしまう。鷹狩りに出かけた帰り道に体調が急変し、16年の生涯を閉じている。
子どもをことごとく失った家治。意次に政務を任せて、自身は囲碁に興じたというが、何もかもが嫌になってしまってもおかしくない状況だ。
このときに家治はまだ41歳。十分に子どもができる年齢だったが、もはやその気力もなかったのだろう。次期将軍候補として養子を迎えることを決意。その中心となって動いたのが、田沼意次である。
家治の養子選定を行った田沼意次
家基の没後、次の世継を決める「御養君(おんやしないぎみ)御用掛」に命じられたのが、若年寄の酒井忠休、留守居の依田政次、そして、老中の田沼意次である。おのずの最高位である老中の意次が中心となり、家治の養子の選定が行われることとなった。
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実質的には次の将軍を決めるという大役を担うことになった意次。天明元(1781)年4月15日に命じられて以来、意次は江戸城から屋敷に帰ると小座敷にこもり、側近さえも遠ざけて、選定に頭を悩ませたいう。
そして、天明元年(1781)年閏5月27日、家治の養子については、御三卿の一つである一橋家の徳川治済の子、豊千代に決まったと公表された。この豊千代が、のちの11代将軍・徳川家斉である。
跡継ぎ問題を解決させたことで、意次は1万石の加増を受けて、4万7000石の大名となっている。しかも、次期将軍選びで主導権を握ったことで、その後の影響力も確約されたようなもの。このときは、まさか恩を売ったはずの家斉によって、田沼派が一掃されるとは、夢にも思わなかったことだろう。
【参考文献】
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』 (平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
後藤一朗『田沼意次 その虚実』(清水書院)
藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『なにかと人間くさい徳川将軍』(彩図社)
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