「はたして将軍が務まるのか」とずっと周囲から不安視されていた父の家重とは違って、家治は幼少期から聡明で、弓術や馬術、鉄砲などの武術にも長けており、その将来が大いに期待されていた。
8代将軍の吉宗からすれば、孫の家治には、将軍家の命運を託したような気持ちだったことだろう。わが子の家重にはまるで響かなかった幼少期からの教育にも、孫の家治はきちんと応えてくれた。
書道では家治の豪快な筆づかいを見て、吉宗が「天下を志す者はこうでなければいけない」(天下をも志ろしめされむかたの御挙動かくこそあらましけれ)と喜んだという逸話まで残っている。
そんな有望な家治が意次に丸投げするほど、政務にやる気をなくしたのは、息子・家基を若くして亡くしたからではないか、と言われている。家治の置かれた状況を踏まえると、家基の死が家治にもたらしたものは、ただ「跡継ぎを失った」という悲しみ以上のものがあったようだ。
正妻と仲睦まじく側室を求めず
徳川家の歴代将軍はその血筋を絶やさないように、正妻だけではなく、積極的に側室を持つことが多かった。初代の家康には築山殿と旭姫という2人の正妻のほか、15人以上の側室がおり、信頼できる者には金庫番を任せることさえあった。
圧巻なのは11代将軍の家斉だろう。愛妾は40〜50人にも上り、子どもを生んだ側室だけで16人もいた。実に53人もの子を残して、そのうち13人の息子、12人の娘が成人している。
家斉の子沢山ぶりがすさまじいがゆえに目立たないが、息子で12代将軍の家慶も、15人の側室をもって27人も子を成している。それでも結局、生き残ったのは、13代将軍となる家定のみ。早世する子どもが多かったことを踏まえると、将軍が多くの側室を持ち、できるだけ多くの子孫を残そうと躍起になるのも無理もない。
そんなか10代将軍の家治は、側室をなかなか持たなかったことで知られている。家治が閑院宮直仁親王の娘・五十宮倫子を正妻として縁組の披露を行ったのは宝暦3(1753)年、家治が17歳のときのことだ。
しかし、すでに5年前から2人は出会っていた。家治が12歳のときに母を亡くしており、気の毒に思った祖父の吉宗が、倫子を正妻として迎えることを決めたのだという。翌年には倫子は江戸に下って、浜御殿に居を移すと、家治は江戸城から倫子のいる浜御殿に通う日々を送った。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら