「大学教育にふさわしい準備とはなにか」。大学教育の有り様によって多様化することは間違いない。生成AIとうまく付き合えることも大学教育をうまく享受するための「能力」なのだろう。求めるものは「学ぶ意欲」なのか。ではそれをどのように測るのか。そもそも大学が求める「知的能力」とはなんなのか。
文科省の中央教育審議会大学分科会では、高等教育の在り方を議論しているが資料に「知の総和(数×能力)」とある。こうした概念を示す段階で議論の解像度の低さが心配になる。
「知の総和」とは人の「数」を確保して、より高い水準の教育により「能力」を高めることで総和を上げていこうといったことを示しているようだが、この「数(人)」とは誰なのか。生産力のある人なのか。
日本の生産年齢人口の割合はOECD加盟国の中で群を抜いて低い。それを上げるためには出生数を増やさないといけないし、上がるまでには15年以上の時間がかかる。移民受け入れの議論もまだまだ十分ではない。「数」が増えないとなると「能力」を上げなければ「知の総和」は維持できない。
果たしてこの能力とはなになのか。そもそも能力はアカウンタブルなものではないからかけ算には使えないことは小学生でも知っていることだが。
能力の定義もできていないだろう。そもそも能力をアカウンタブルなもので示せるのであれば教育の議論はとても楽になる。それがいまだできないのだから困っているのだ。
未来を創るのは教育を受けた若者
AIが進化する中で「より高い水準の教育」とはなにを意味するのか。OECDのPISA調査(学習到達度調査)からわかるように日本の教育の「平均値」は高い。この平均値を上げようとしているのか、特定の人材の能力を上げようとしているのか、特定人材だとしたらその能力はどこまで高めたら良いかを示すことはできるのだろうか。
世の中は優秀な人材だけで構成されているわけではない。この議論はユニバーサル段階にある大学教育をどこに着地させようとしているのか。
教育は社会の中にあり、社会の影響を強く受ける。予測不可能な社会を前に、教育の未来予測はかなり困難である。しかし、社会が変わろうとしても、選抜機能が緩くなっても、
未来を創るのは教育を受けた若者である。このことをいま一度確認したい。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら