「知っているだけの知識人」はもういらない! なぜ東大も京大も変わったのか? 大学「大衆化」の現実と再定義される「優秀さ」とは

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図書室で調べ物をする高校生
時代の過渡期を生きる若者には、新しい価値観による優秀さが求められています(写真:jessie / PIXTA)

日本の大学は、万人に開かれた「ユニバーサル段階」にあることはこれまでも述べているとおりだ。だが、この認識はなかなか広がらない。

わからなくもない。なぜならば「状態」と「あり方」が異なるケースがあってもおかしくないからだ。世間一般では「大学はエリート教育」といった認識がまだまだ強いようで「Fラン大学」「定員割れ」「全入化」には批判的な人たちも少なくないようだ。

いや、調査したわけではないので、「大学はエリート教育」といった認識は、実際には社会的マイノリティかもしれない。なにしろ大学進学率が15%以下である「エリート段階」に大学があったのは60年も前のことだ。大学がマス化(大衆化)して久しいのである。

大学はもはやエリート養成機関ではない

であれば、いわゆる「エリート大学」の卒業生よりも圧倒的にそうでない大学を卒業した人が多いのだから、大学にエリート養成を求めることはないだろう。

そして「エリート大学」出身であることを自負したところで、出身大学だけで能力を評価できないのは大手企業に勤めたことのある人であればわかるだろう。

必ずしも「エリート大学」の出身だからと言って良い仕事ができるわけではない。特に少子化の昨今では、昔に比べれば、東京大学だって入りやすくなっていることは自明だ。

学力の上位である何パーセントかが入学しており相対的には優秀だろうが、いまは18歳人口という母数が団塊ジュニアの頃に比べて半減している。昔とあまり入学定員が変わっていないのだから、おのずと入学の門は広くなっている。

それは入試難易度を見ているだけではわからない。「偏差値」は相対的なもので母集団によって左右されるもの。その母集団が優秀になったかを測る術が実はないのだ。

これは大学入試が「競争試験」であるため、有意差が生じるように、平均点が60点になる正規分布を描くように出題しているからだ。偏差値も平均点も最高得点も、すべて母集団が変わればそれに応じて変えていくものである。つまり、母集団相互の優秀さを比較できるわけではない。

だから、団塊ジュニアの頃のように母集団が大きくて大学入試が難しかったのは量的な競争が激しかったにすぎず、質的に1980年代前半や現在と比較して優秀だったかどうかは本当はわからない。

ただ、競争が激しければそれに打ち勝とうとして勉強に励むので、トップ層は優秀だったのだろうと推測することはできるかもしれない。試験で良い点数を取れるように訓練された事実はあるだろうが。

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