日大の収入を「100倍」にした「中興の祖」の辣腕 西日本一のマンモス大学「近大」の源流も日大

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日本大学
2024年6月時点の日本の大学生数を見ると、ダントツの1位が16学部86学科を擁する日本大学のおよそ7万人だ(写真:Mugimaki/PIXTA)
田中英壽理事長体制での一連の事件を経て、2022年7月、作家・林真理子氏を理事長に迎えた日本大学。改革が進むかにみえた新体制だったが、アメフト部薬物事件、重量挙部・陸上部・スケート部における「被害額約1億1500万円超」もの金銭不祥事などが立て続けに起こっている。日本最大のマンモス私大「日大」は、どのような経緯をたどって現在に至ったのか。
話題の『地面師』著者で大宅賞作家でもある森功氏の新刊『魔窟 知られざる「日大帝国」興亡の歴史』を一部編集し、全4回に分けてお届けする最終回(1回目はこちら、2回目はこちら、3回目はこちら)。

戦中に縮小された各学部の復活・新設・再編

日大は戦前の旧制大学時代から高等文官試験合格者を数多く輩出し、法学部を中心とした総合大学の基盤を築いた。その間、附属の中学や高校、専門学校などをいくつも設立していたが、戦中から終戦にかけ規模の縮小を余儀なくされる。

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終戦を迎えた古田重二良(じゅうじろう)は、戦中に縮小された日大の各学部を復活させようとした。それだけでなく、新たな学部を新設し、各学部の再編に乗り出す。

たとえば1951年には、東京獣医畜産大学を吸収して翌年農学部を農獣医学部と改め、52年に経済学部経営学科を商業学科と改称した。

その学部再編のなかでも、とりわけ古田は理工学部系の拡充に力を注いだ。福島県に移転した専門部工科を工学部第一部と第二部に改編し、東京・駿河台にあった従来の工学部に物理学科を加えて理工学部と改組し、工学部の工業経営学科を母体にして生産工学部とした。

古田時代の新設学科としては、このほか、法学部に経営法学科と管理行政学科、経済学部に産業経営学科、芸術学部に放送学科といったところが加わっている。また会頭に就任した1958年には、1963年までの5カ年計画を立てて大学の拡大に邁進していった。

この戦後の古田による大学改革は、現在の日大の原型となる。各学部が独自に学校運営できるよう独立採算制を導入し、そのうえで学部の下に附属学校を持つことを認めた。文理学部の傘下に設置した日本大学世田谷(現日本大学櫻丘)高校などは、わかりやすい例だ。

古田はまた施設の拡大も図った。会頭就任前の58年、日本相撲協会から両国国技館を買って日大講堂に改装した。そして会頭就任後の59年には、その日大講堂で「日大創立70周年記念式典」を開催する。そこに昭和天皇、香淳皇后の両陛下をはじめ、首相の岸信介や閣僚を招待し、その権勢を内外に見せつけた。

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