伝説的なトップたち
135年という長い歴史を誇る日大は、何度も大きな転機を迎えてきた。そこで圧倒的な存在感を残した伝説的なトップが数多く存在する。
言うまでもなくその一人が初代司法大臣だった学祖の山田顕義であろう。
山田は陸海軍両方の参謀や中将、法律取調委員長を務めて日本法律学校を創設した3年後の1892(明治25)年1月、枢密顧問官に就任した。この年の11月、再従兄(はとこ)の奇兵隊員だった河上弥市の墓碑に参拝したあとに卒倒し、49歳の若さで命を落とした。
山田亡きあと、草創期の明治、大正時代には、もっぱら検事や司法官僚、司法制度に携わってきた貴族院議員たちが法律学校だった日大を支えた。
日大の歴史は大きく3つの時代に分かれ、大学のあり様が変化してきたといえる。明治維新以降の草創期に続く第二期が、第二次世界大戦の前後から高度経済成長期にかけ、マンモス私学に成長した時代である。そこからさらに、バブル経済期を経てトップに昇りつめた田中英壽理事長時代に突入する。評価の良し悪しはさておき、それぞれの時代には、特筆すべき大学トップがいた。
草創期の日大では、学祖の山田が急逝し、法律専門学校として廃校決議までおこなうなど存亡の危機もあった。それを救ったのが、司法官僚だった松岡康毅だとされる。松岡は裁判所構成法の制定など日本の訴訟制度近代化に尽力し、大審院検事総長や農商務大臣を歴任した貴族院議員として知られた。
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