だが、太平洋戦争によりそれらの校舎もすべて焼き尽くされた。
そんな戦中、戦後に日大を率いたのが山岡萬之助と古田重二良である。なかでも古田は日大教員や職員のあいだで、終戦後、飛躍的に大学を大きくした立役者、大学中興の祖として今も語り継がれる。日大HPでも次のように持ち上げている。
〈日本大学は、戦前において第3代総長山岡萬之助を中心に、人文・社会・芸術・工学・医学・農学など広い領域にわたる学部・学科を創設し、総合大学の基盤を築きました。そして、戦後において会頭古田重二良を中心に、「世界的総合大学」をめざして、理系の学部・学科を中心に増設し、財政基盤の確立に努めました〉
のちに理事長になる田中は古田に倣った。夫人の経営してきた「ちゃんこ料理たなか」のすぐそばには相撲部の合宿所がある。日大の相撲部員たちは寮とちゃんこ屋を行き来しながら学生生活を送ってきた。
相撲部のエースだった田中は古田に私淑し、古田が糾弾された日大紛争では、大学執行部側に立って左翼学生と対峙する。
田中英壽の大学運営における師
古田重二良は1901(明治34)年6月、秋田県河辺郡下北手村(現秋田市)に生まれた。1921(大正10)年8月に秋田から上京し、同年9月、日本大学専門部法律科特科へ入学する。法律を学びながら、柔道部の主将として鳴らした。その点でも青森県から上京し、日大相撲部のエースとして学生横綱に輝いた田中英壽と似ている。
古田は戦後、会頭として新たな学部を次々と創設する。田中英壽は奇しくも古田会頭体制時代に日本大学経済学部に入学し、相撲部で活躍した。田中は日本の私立大学の頂点に君臨した日大中興の祖を仰ぎ見て学生生活を送り、自らも職員となって大学のトップに昇りつめた。理事長の座を得た田中にとって、古田重二良は大学運営における師といえる。
1924(大正13)年7月に日大専門部法律科を卒業した古田は、同郷の法文学部教授圓谷(つむらや)弘の推薦により、翌1925年4月に日大高等工学校の事務職員として採用された。大学職員となった田中が相撲部のコーチや監督となり、学内の影響力を増していったように、古田もまた学生時代の柔道部主将から職員となって柔道師範となり、学内に睨みを利かせた。
折しも日大は古田が日大職員になった同時期、大阪に日本大学専門学校を増設し、それがのちの近畿大学となる。近大もまた、相撲部をはじめ運動部を強くして大学を拡大していった。
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