日大の「存亡の危機」を救った歴代総長の"伝説" 明治維新後の日本近代とともに歩んだ「トップ」

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若き古田の職員時代は、日本社会全体が第二次世界大戦に翻弄された。ことに1941(昭和16)年12月に日米が開戦して太平洋戦争が始まり、次第に戦況が悪化すると、学生も戦地に駆り出された。国内の大学は授業どころではなくなり、終戦間際には米B29爆撃機が東京をはじめとした日本の主要都市を次々と破壊した。多くの校舎を失った日大は学部を大幅に縮小したまま、終戦を迎える。

もともと日大では学長や理事長に代わる大学運営のトップとして総裁制を敷いてきたが、戦火が激しくなると総裁ポストが空席になった。

終戦直後の1946(昭和21)年7月には、理事長制を導入し、総裁空席のまま呉文炳(くれふみあき)が理事長に就任する。古田自身は1945(昭和20)年6月に工学部(現理工学部)の事務長に出世している。やがて終戦を迎え、日本中がカオスに陥ると、古田は理事長である呉の側近として、戦後の日大復活に向けて奔走していく。

敗戦の混乱期に頭角を現した古田重二良

日本政府がポツダム宣言を受け入れて全面降伏した2カ月後の1945年10月、国内では米占領下で幣原喜重郎内閣が成立した。すると連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)はまず旧日本軍の勢力を一掃すべく、国内にさまざまな統制を敷く。ことに教育分野では、「日本教育制度に対する管理政策」を発布し、神道教育を禁止した。

しかし、ほどなく第二次世界大戦後の世界情勢が米国の日本占領政策を一変させる。ヤルタ体制下で日本が侵攻した東南アジアの植民地の扱いを協議してきた米英と中ソが対立し、米ソの冷戦時代に突入したのである。

1950年6月には、日本の植民地だった朝鮮半島の統治を巡って朝鮮戦争が勃発する。GHQは中ソの影響を受けた日本国内の共産主義勢力や労働組合運動の台頭に危機感を抱き、日本国内のレッドパージに乗り出した。

古田重二良はそんな敗戦の混乱期に日大で頭角を現した。その存在感を増していったのは、米国と日本政府が左翼の弾圧に乗り出した時期と重なる。日大は終戦1年後の1946年7月、それまで大学の最高ポストとされた総裁を会頭に改め、呉が理事長のまま会頭に就いた。会頭就任のお膳立てをしたのが古田にほかならない。

おかげで古田は1948年4月に日大の参与理事、1949年2月に評議会会員ととんとん拍子に出世し、さらにこの年の12月には呉会頭の懐刀として理事長に就く。そして明くる1950年2月から、日大における教職員のレッドパージの指揮を執っていった。

社会党・片山哲の連立内閣樹立

東西冷戦の世界情勢を反映するかのように、日本国内には1945(昭和20)年の終戦から50年代にかけ、さまざまな政治勢力が入り乱れてきた。保守と革新それぞれの政党が分裂や合併を繰り返した。革新勢力では、終戦を機に労農マルクス主義の左派と反共の右派、中間派の3派が合体し、日本社会党が発足した。その勢いのまま1947年5月には、社会党委員長となった右派の片山哲が他の革新政党を巻き込んで連立内閣を樹立する。

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