ところが、その片山内閣も1年と持たず1948年3月に瓦解し、左右両派の対立により、党内が分裂した。社会党は1951年、サンフランシスコ講和条約を巡り、中ソに近い社会党左派と西洋型社会主義を目指した社会党右派に分かれた。が、どちらも選挙の議席が伸びなかったため、両派は1955年10月の党大会で再びいっしょになり、新生社会党が誕生する。
55年体制下の保守勢力結集
これに脅威を覚えたのが保守勢力だ。社会党が再統一したすぐあとの11月には、自由党と日本民主党が合同し、自由民主党が結成された。通称、保守合同だ。
保守合同は、終戦直後に日本自由党を結成し、1946年に首相に就くと目された初代総裁の鳩山一郎と、戦後の東久邇、幣原両内閣で外務大臣を務めた吉田茂が中心となって実現した。そして鳩山は初代、吉田は2代目の自由党総裁となるが、反面、二人は米国との距離感が異なり、仲たがいした。
親米の吉田に対し、鳩山は米国から睨まれた。戦前、立憲政友会総裁としてドイツのナチス政策を称賛し、文部大臣時代に京都大学法学者の思想を弾圧した「滝川事件」を引き起こした鳩山は、終戦時の米軍の原爆投下を批判した人物と見なされた。挙句、1946年5月に公職追放の憂き目に遭う。
一方、吉田は公職追放された鳩山に代わり、自由党の第2代総裁に就き、1946年5月に第一次吉田内閣を樹立した。党人派の鳩山に対し、もともと外交官だった吉田は親米の官僚派と呼ばれ、GHQの占領政策の下、袂を分かったといえる。
GHQが戦犯追及からレッドパージに切り替え、その嵐が吹き荒れるなか、鳩山は1951年8月に公職追放を解かれた。
が、その後も吉田とは反目した。鳩山は1954年、同じく公職追放された三木武吉、河野一郎、岸信介らとともに自由党の反吉田派に呼びかけ、野党の改進党など他の保守系政党とともに日本民主党を結成する。また自由党内でも反吉田派の議員たちが吉田に退陣勧告を突きつけた。
結果、吉田は内閣総辞職し、そのあとの国会で鳩山が首班指名選挙で自由党の緒方竹虎に勝って第一次鳩山一郎内閣を樹立した。
保守政党は衝突や分裂を繰り返しながら揺れ動いた。しかし、先の社会党の再結党により、まとまることになる。それが保守合同であり、ここから保守対革新の2大政党時代となって55年体制がスタートする。
日大の古田はこの間、私立大学連盟理事や私立大学審議会会長を歴任し、日大だけでなく国内私学復興の立役者として名を馳せていく。そして1958年6月に会頭に昇りつめた。
(敬称略)
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