山田の死後、ともに日本法律学校の創設にかかわった初代校長の金子堅太郎が退任し、代わって松岡が2代目の校長となる。
松岡は1893(明治26)年12月、日本法律学校が司法省に指定学校になることを認めさせ、山田の急逝した危機を切り抜けた。司法省のお墨付きを得た日本法律学校は、生徒たちに判事検事登用試験の受験資格が与えられ、日本の法曹界に人材を送り出す役割を担うようになる。
そうして法律専門学校が1920(大正9)年、晴れて私立大学へと昇格する。松岡はまず日大に法文学部を置き、さらに専門部を設置して宗教科や社会科、美学科、高等師範部に国語漢文科を加えた。高等工学校までつくり、東洋歯科医学専門学校を合併して専門部歯科とした。松岡は大学昇格後初の日大学長となり、さらに1922(大正11)年3月、総長に就任する。
このとき松岡に代わる新たな学長には、同じく大審院長、検事総長出身の平沼騏一郎が就いている。
平沼は枢密院議長や首相を歴任し、日大は文字どおり戦時下における国策の司法制度を担う法律家を養成する学府となる。一般に平沼は、太平洋戦争の勃発時、内務省や司法省、右翼勢力を背景にして東条英機内閣の打倒を目指したと評される。
反面、終戦後に天皇が側近に語った記録、寺崎英成/マリコ・テラサキ・ミラー著『昭和天皇独白録』(文藝春秋)によれば、天皇から日米の和平と開戦の二股をかけていた人物として糾弾されたという。戦後、A級戦犯として巣鴨プリズンにつながれたのは周知のとおりだ。
関東大震災で校舎を失う
大学に昇格して校舎を新築したばかりの日大は大正末期から昭和初期、戦中にかけ、まさに苦しい時代を迎えている。1923(大正12)年9月1日には、関東大震災に見舞われ、東京の街全体が破壊された。震災で神田の三崎町校舎をはじめ、駿河台の歯科・高等工学校の校舎など、すべての施設を失う羽目になったのである。
おまけにときを同じくして総長の松岡が静養先の葉山で死去した。11月には松岡に代わって急きょ平沼が総長に就任し、山岡萬之助が学長に就いた。平沼・山岡の総長・学長コンビは三崎町の焼け跡にバラックを建てて本部事務所代わりにし、仮校舎を建てて講義を再開させたという。
それでも日大は総合大学を目指して法文学部に文学科を加え、商学部に経済学科、工学部を設置。さらに専門部のなかに文科、医学科、工科、拓殖科、高等師範部に地理歴史科と英語科を置いた。太平洋戦争の勃発した明くる1942(昭和17)年という戦時下にありながら、医学部をつくり、翌43年には新たに農学部を増設した。
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