もう1つの観点として、そもそもお節料理のようなものがあらゆる文化圏で成立するのかという疑問がある。
お節料理の重箱の中に込められた意味といったら、なかなかな盛りだくさんだ。黒豆はマメに生きる、数の子は子孫繁栄、海老は腰が曲がるくらい健康長寿——。食材や料理の1つひとつに掛詞のような意味合いがあり、それらを食べることで願いをかける。
お節料理は、特別おいしいご馳走というわけではないが、食べる行為自体に重きがあるもの、意味を食べる類の食べ物だ。キリスト教のミサで与えられるパン切れはおいしいものではないけれど、「聖体」としてありがたくいただくのと似ているかもしれない。
お節は「ハイコンテクスト文化」を体現している?
このお節料理のゲン担ぎ、なかなか“ハイコンテクスト”だ。意味を知らない外国人が見たら、黒豆はただの真っ黒な豆だし、数の子はぷちぷちしていてなんともいえない味だし、海老は殻なしでまっすぐの方が食べやすいと思うかもしれない。意味を理解し信じないと成り立たない、ハイコンテクストな食べ物なのだ。
パイや餃子に「あたり」が入っているのは、文化を共有していなくても経験を共有できる。あたりはあたり、その人はきっとラッキー、わかりやすい。数の子を食べて「今年も……」と願いを込めるのはそれより一段ややこしい。
日本文化はハイコンテクストな文化だと言われる。「ハイ(ロー)コンテクスト文化」というのは、アメリカ合衆国の文化人類学者エドワード・T・ホールが『文化を超えて』(1976年)で提唱した概念だが、ハイコンテクスト文化ではコミュニケーションが価値観や感覚といったコンテクスト(文脈)に大きく依存するとされる。
暗黙のルールが多く、行間を読んだり空気を読むことが重視されるといった日本文化は、最もハイコンテクスト文化な例として挙げられている。確かに「ぶぶ漬けでもどうどす」などは行間を適切に読まないと意味がわからず、その文化の外で育った人には極めて難しい。
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