それに引き換え、三条天皇は一条天皇より4歳年上の従兄弟であり、一条天皇の即位とともに、11歳で立太子されるも、そこから実に25年にもわたって、皇太子のままだった。36歳でようやく天皇になれば、自分のしたい政治を行いたいと思うのは当然だろう。
また、一条天皇のときとは違い、三条天皇の治世では、道長はすでに最高権力者の地位にいた。ともに支え合う関係からは程遠く、むしろ、道長の影響力をいかにそぐかという発想になるのも無理はない。
道長の孫・敦成親王が皇太子に据えられていることも、三条天皇からすれば、脅威だった。道長は自分の孫を天皇にさせるため、自分に譲位を迫ってくるのだろうか。そう不安にもなっただろうし、事実、予想通りの展開となる。
人事を巡ってデッドヒートした2人
即位するやいなや、道長をコントロールすべく関白に据えさせようと何度も要請したり、人事で主導権を握ろうとしたりするなど、三条天皇のアグレッシブさには、道長も面食らったことだろう。
特に、自身の娘を中宮としながら、長年の妻である娍子も皇后にするという「一帝二后」を仕掛けてくるとは、想像すらしなかっただろう。「道長に退位へと追い込まれたかわいそうな天皇」というイメージが強いが、実際には、道長に屈しまいとさまざまな手を打っていることがわかる。
除目において道長と三条天皇の意見が対立することもしばしばだった。
寛弘8(1011)年12月17日から始まった除目では、三条天皇が長く連れ添っている娍子の異母弟にあたる藤原通任を出世させようとした。蔵人頭に抜擢した通任を、さらに参議に上らせようとしたのだ。その代わりに、後任の蔵人頭に、道長の3男にあたる顕信をあてようとした。
だが、道長はそれを固辞。その後、顕信は出家してしまう。父の道長に出世を阻まれて絶望したという説もあれば、行願寺の行円の教えに感銘を受けたという説もある。いずれにしても三条天皇の働きかけが、親子の不和を招いた可能性は高い。
三条天皇の人事への介入はその後も続き、長和2(1013)年にも、6月23日に行われた小除目にて、三条天皇は藤原懐平を権中納言に引き上げようともくろんだ。娍子の立后の儀が開かれたときに、道長のプレッシャーに屈せずに、参加した数少ない公卿の1人が、懐平だった。
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