道長の5男にあたる教通(のりみち)を権中納言に任ずるのと引き換えに、三条天皇はこの懐平も「東宮司として自分に仕えてくれた」という理由で、権中納言に引き上げようとした。
道長はこれに反対し「中納言の数が7人になるのは多すぎる」としたが、三条天皇は「やはり懐平も加えようと思う」といって譲らず、押し切っている。
ならば、と道長は、嫡男の頼通も権大納言に出世させようと、三条天皇に働きかける。三条天皇が拒否しようとするも、「頼通も東宮司として仕えていた」という理由づけで、説得に成功している。
まさにデッドヒートだが、三条天皇からすれば実権を握る叔父を完全に敵に回すのは得策ではないし、道長としても、娘を嫁がせている以上、強くは出られない。
というのも、三条天皇が娘との間に皇子を産んでくれれば、次の天皇に敦成親王が即位したときに皇太子に据えられる。「天皇も皇太子も自分の孫」という盤石な体制を築くには、三条天皇はキーマンであり、むげにはできなかったのである。
だが、三条天皇と妍子の間に生まれたのが、女の子だとわかると、道長はもう待ってはいられなかった。あからさまに退位を迫るようになる。
妍子の子が娘とわかって落胆する道長
道長の次女・妍子が三条天皇との間に、禎子内親王を産んだのは、長和2(1013)年7月6日のことである。藤原実資は翌日7日分の日記として『小右記』に、そのときの道長の様子について記述している。
『小右記』によると、実資は養子である資平(すけひら)から「相府、已に卿相・宮の殿人等に見給はず。悦ばざる気色、甚だ露はなり」と報告を受けたという。意味としては、次のようになる。
「道長殿は、公卿や中宮の殿人にまったく会っておられません。あからさまにお喜びではない様子でした」
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