労働者の権利を保障するために生まれたソーシャルジャスティスという概念は、100年あまりの時を経て、世界平和の礎ともなる考え方として明文化されたのだ。
労働は、あらゆる生産活動の原動力だ。そこに畑があっても、人が動かないと小麦は育たないしパンはできない。人が働くことで物やサービスがうまれるわけで、その労働の対価が最終的な値段に反映されていると考えると、安いものの裏には不当な労働がある可能性がある。
「環境正義」という概念の根本にあるもの
食も例外ではない。安価なチョコレートの裏に正当な労働はあるのか。低賃金で長時間働いたり、劣悪な環境だったり、子どもを働かせたりはしていないか。フェアトレードという概念にも通ずるそういった意識が生まれてくるのは、歴史の流れを考えると自然なことかもしれない。
この考えを発展させると、人権や差別といった問題に関心は広がり、さらに、動物に不当な苦痛を強いていないか、自然資源を搾取していないか、といった人間以外の周辺環境に広がっていく。
1980年代のアメリカでは「環境正義(environmental justice)」という概念が生まれ、社会運動となっていった。なるほどと思ったのは、その根本にあるのが「自然環境を搾取してはいけない」という自然界への正義心ではなく、「搾取することによって悪化した環境の被害を真っ先に被るのは社会的に弱い立場の人たちだから」という、人間社会に対する正義心であるという点だ。自分のためではないけれど、やっぱり自分たち人間のため、自分の生きる社会のための利益なのだ。
欧米社会は、社会を自分と同一視する傾向、言い換えると市民が社会を作るという意識が非常に強いように思う。フランス革命・イギリス革命・アメリカ独立革命といった市民革命によって封建・絶対主義から解放され権利を勝ち取ったという歴史があるためか、市民というのは単に「住んでいる人」という意味ではなく、「社会を作る人」なのだという気概は日本よりはるかに強いものを感じる。
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