確かに、式部は幼少期に父の為時から「男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ(この子が男子でないとは、なんと私は不運なんだろう)」と残念がられたほどの才女だ。その点においては、ほかの女性ではなかなかいないタイプであり、だからこそ宣孝は手に入れたかったのではないだろうか。だとすれば、式部の「もう飽きたのですね」という勘は鋭いように思う。
また、式部は結婚してすぐの頃、夫となったばかりの宣孝に、こんな歌も贈っている。
「折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 思ひぐまなき 桜惜しまじ」
意味としては「桃の木を折って、その花を近くで見ると、離れて見るよりも美しい」となり、さらに「あなたを思いやらない桜など惜しくはないのです」と続けている。自分を「桃の花」に、宣孝のほかの妻を「桜の花」にたとえながら、こう伝えているのだ。
「私と結婚したあなたは、『思っていたよりもずっといい女だ』と気づくでしょう。あなたを思いやらなかった方なんて惜しくはありませんよ」
なかなか自分に振り向いてくれなかった式部が、今や「あなたに、いい女だと思わせてみせる!」と意気込んでいる。
本来ならばうれしいはずだが、いくら熱心に口説いても、クールにさばく。彼女の知的さに夢中になったのだとすれば、そんな変化が宣孝にとっては、つまらなく感じられたのかもしれない。
誰かのことを忘れるのは世の常だが……
いったん、心が離れてしまった相手を振り向かせることほど、難しいことはない。
式部は「忘るるは うき世のつねと 思ふにも 身をやるかたの なきぞわびぬる」という和歌も残している。詞書には「久しくおとつれぬ人を思ひ出でたるをり」とあるから、宣孝に向けてのものだろう。意味としては、次のようなものになる。
「人のことを忘れてしまうということ。それは、憂き世の常のことだと思うけれども、忘れ去られたほうは身のやり場がなく、どうすればよいのかわからず、切ない思いで泣いてしまうのが、侘しいことだ」
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