どちらかというと、引っ込み思案な式部とは、だいぶ違うタイプである。それだけに、一緒にいれば「自分もまだ知らない自分に出会えるかも」と考えたのかもしれない。
だが、恋愛はそれでよくても、結婚となると、価値観のギャップが、深刻なすれ違いを生みやすくなる。
式部を待ち受けていた宣孝との結婚生活は、あまり幸せなものではなかったようだ。
子どもをもうけるも悲しい結婚生活
2人が結婚した時期は、長徳4(998)年の冬頃とされている。その翌年の長徳5(999)年には一女として、藤原賢子が生まれるなど、幸せの絶頂にいたかにもみえるが、宣孝の足は早くも遠のいていってしまったらしい。
このまま放置するのはまずいと、フォローしようとしたのだろうか。7月には、式部のもとに宣孝から、こんな歌が届けられている。
「うちしのび 嘆きあかせば しののめの ほがらかにだに 夢を見ぬかな」
(あなたを想い、ため息をついているうちに夜を明かしたので、夜明けになつかしいあなたを夢に見ることもできなかった)
これだけ読むと、宣孝には式部への思いがまだありそうだが、式部からすれば、もう何度も肩透かしを食らったのか、顔を出せていないことへの言い訳としか思えなかったようだ。こんな返歌を行っている。
「しののめの 空霧りわたり いつしかと 秋のけしきに 世はなりにけり」
そのまま詠むと「夜明けの空には一面に霧がたちこめて、早くも秋の景色となりました」といった意味になるが、「秋の情景」に、「飽きの気色」を懸けており、「私も飽きられてしまったようですね」と切ない感情が込められている。
あれだけ口説き落とすのに熱心だったのに、結婚して間もなく、宣孝の足が遠のいたようだ。
そもそも、宣孝には、すでに数多くの妻子がありながら、なぜ式部を新たに妻にしようと思ったのか。
新婚早々に繰り広げられた夫婦喧嘩に、そのヒントがありそうだ。宣孝が新たな妻の教養を自慢しようと、あちこちで式部の手紙を見せてまわったのだという。これに、式部が激怒。感情を和歌にぶつけながら、一通りやりあったのち、宣孝が謝罪。ケンカ自体は終了したようだ。
だが、このケンカの背景から、宣孝にとって新たな妻・式部の自慢ポイントは「手紙」、つまり、教養の深さだったことが感じ取れる。
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