「藤井聡太を"人間"にした男」伊藤匠の背負う宿命 「同世代棋士が無敵の王者を破ったこと」の意味
デビュー1年目頃に言われたのは、序盤の精度に比べて、まだ終盤がトップ棋士とは差があるということだった。だが今回の叡王戦では伊藤の終盤での逆転が光った。注目すべきは、第5局の感想戦で藤井が自らのミスを認めながらも、「伊藤さんの力を感じた」と発言したことである。森下は言う。
「人間とAIの終盤は違うんです。AIの終盤は読む力、計算力のみなんですけど、人間の終盤はその人の醸し出している雰囲気も大きい。
たとえば、谷川浩司十七世名人の全盛時に“光速の寄せ”という表現がありました。相手が一緒になって負かされてしまうような状態になる。“2人がかりで寄せる(玉が詰まされる形になっていく)”とまで言われました」
圧倒的な力を感じさせることで、相手が自ら吸い寄せられるように終局に向かってしまうというのだ。
「終盤力は、やっぱり戦っていく中で強くなっていく。藤井さんと連戦してきて、伊藤さん自身の力がついただけでなく、周りの棋士からの『彼が指すなら正しい』という信用もついたんじゃないでしょうか。何よりも最強の相手と戦い続けることで、迫力も増していきます」
今回の伊藤のタイトル奪取で、棋士たちの意識はどう変わっていくのだろうか?
「七冠の羽生さんから三浦弘行五段(現九段)が最初に棋聖を奪ったとき、他の棋士たちに『自分にも勝てるんじゃないか』という意識が芽生えた。今回伊藤さんが勝ったことによって、藤井不敗という神話が崩れたことは大きい。どこか人智を超えた存在だったものが、藤井聡太といえども『生身の人間なんだ』と思えるわけです」
藤井さんにミスをさせるというのは、すごい技術
伊藤と同じ宮田門下で、4歳上の兄弟子である斎藤明日斗五段は叡王戦第5局の中継を固唾を飲んで見つめていた。
「リアルタイムで観戦し、本当に驚いて受け止めています。藤井さんはタイトル戦では無敵の雰囲気が漂っているところがあり、そこを伊藤さんが最初に崩したという意味で驚きを隠せない感じですね。
もちろん、弟弟子に先をいかれたという意味では悔しさもあります。でも、普段から将棋を教えてくれている伊藤さんが今回タイトルを獲られたのは、自分にとってもすごい希望になりました」
斎藤は小学生時代から三軒茶屋の教室で、弟弟子の伊藤や兄弟子の本田奎六段と研鑽を積んできた。本田は2019年に棋王戦で挑戦者になり、斎藤は2022年度の年間勝率で藤井聡太に次いで棋士全体の2位につけた実績を持つ。3人の若手俊英が揃う宮田一門は、“三軒茶屋の三兄弟”とも呼ばれる。
「藤井さんがいつも通りではないという雰囲気も、少しはあったかもしれません。ただ、藤井さんにミスをさせるというのは、すごい技術だと思います。伊藤さんの局面を難しくさせる力や、粘り強い持ち味が発揮できたのだと思う」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら