この事例を一見すると、何も始まっていないような感じがする。だが、呼びかけ(ありがとう)に対して、反応(微笑と会釈)があったのは確かだ。もちろん、韓国人男性のメッセージは、本人の言い間違いもあって、完全に誤解されている。だが、「わかりあえない」ことを前提とするのが、対話ではないか。この事例に、対話の成立する余地はあるのか? 今回は、このあたりから説き起こすことにしよう。
慣習による束縛が柔軟性を失わせる
この事例を見ると、コミュニケーションが慣習に縛られた行為であることを、あらためて思い知る。特定の慣習のメカニズムが動き始めると、特定のルールが適用され、ルールから微妙に外れただけで、不思議なくらい柔軟性を失ってしまう。
この事例は、本来ならば極めてわかりやすい構図なのだ。飛行機において、乗客とは客室乗務員に対して「何かを頼む存在」であり、客室乗務員とは「何かを頼まれる存在」である。乗客から呼びかける場合、「何かを頼もうとしている」と解釈して間違いないだろう。
乗客が客室乗務員に声をかける方法にも、いろいろあるはずだ。「すみません」でもいいが、「あのー」や「ちょっと」でも通じるだろう。実際のところ、黙って手を挙げたり手招きしたりするだけで、所期の反応が返ってきたはずである。あるいは、最初から韓国語で声をかけていれば、客室乗務員は御用聞きにやってきただろう。
ところが、「ありがとう」と声をかけると、慣習のメカニズムがまったく起動しない。微妙なものだ。「ありがとう」は、この状況には、まったくそぐわない言葉なのだ。
これは国際コミュニケーションの問題でもある。国際コミュニケーションというと、日本人が外国語で外国人と話すイメージがある。だが、日本語で外国人と話すのも、国際コミュニケーションなのだ。外国人が日本語を話してくれれば楽なような気がするが、必ずしもそうではない。日本語ができるからといって、コミュニケーションを束縛する慣習を知っているとは限らないからだ。この事例のように、日本語を使ったために、かえってトラブルの種を生み出してしまう場合もある。
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