「普通」であれば、多くの説明を要しない。いちいち説明しなくても、多数者が理解するからだ。「普通、そうだよね?」「うん、普通、そうだ」で済んでしまうのである。
そのため、「普通」は、暴力的に作用することがある。「普通」ではない少数派に対して、つねに説明や釈明を強要することができるからだ。
「普通」であれば、「普通」であるがゆえに、自分の立場を説明する必要がない。だが、「普通」でなければ、「普通」でないがゆえに、つねに自分の立場を釈明する状況へと追い込まれるのである。
もちろん、「普通」であることが悪いと言っているのではない。「普通」を無意識に、そして無批判に放置すると、権力者に丸め込まれたり、創造性を失ったり、知らず知らずのうちに暴力的に振る舞ったりしているおそれがあるということだ。
まずは自分の中の「普通」を見直してみるとよいかもしれない。そもそも「普通」などというものは存在するのだろうか?
日本教育大学院大学客員教授■1966年生まれ。早大法学部卒、外務省入省。在フィンランド大使館に8年間勤務し退官。英、仏、中国、フィンランド、スウェーデン、エストニア語に堪能。日本やフィンランドなど各国の教科書制作に携わる。近著は『不都合な相手と話す技術』(小社刊)。(写真:吉野純治)
(週刊東洋経済2011年8月6日号)
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