滞在は申し分なく感じていたのだが、プールサイドのヤシの木から海風に吹かれて落ちた大きな葉があちこちに散らばっていたのを思い出し、清潔さには7をつけざるを得なかった。
同じことが音の大きさにも言え、夕方になるとはじまる生演奏が大きく響きすぎていたように思えた。
そうやってすべての採点を終えてみると、最終的に私が下した評価の中央値は10のうちの8になっていた。
結果をまとめるとそういうことになった。すばらしいと感じていたホテルでの滞在を要約してみたら8になり、なんだか急に、それほどすばらしいものではないように思えてきたのだ。
帰宅して周囲の人たちから会議はどうだったかと尋ねられたときには、快適だったと答えた。「8のホテルに滞在したんだ」。
経験したすべてに有頂天になったという会話にはならなかった。結局のところ、8はそこまでの数字ではない。
評価が、文字通り、私の経験の質を落としていた。みんなに話をするのを楽しみにしていた状態、そのすばらしさをすっかり説明するのは難しいと感じていたほどの状態(おそらく身振り手振りも加えなければ追いつかなかった状態)から、たった1個のわびしい数字に切り詰められてしまったのだ(ミカエル)。
なぜ、そんなことになったのだろうか?
数字は繊細で豊かなものを単純化する
それが数字の働きだからだ。数字はものごとを要約し、切り詰める。数字は繊細で豊かなものすべてを、単純で正確なものに変える。経験は多様だが、数字は正確だ(数字には独自のニューロンまである)。
私たちの経験は山ほどの異なる印象から成り立ち、印象には複数の感覚が関わっている――私たちは、感じて、聞いて、見て、嗅いで、味わう。こうしたすべての印象の組み合わせが、経験をユニークなものにするわけだ。だからこそ、経験はすばらしいものになる。
ところがそのために、経験を解釈して説明するのが、自分自身に対してさえ難しくなってしまうこともある。そのうえ私たちの経験は、想像できるあらゆるものに影響される可能性がある。自分で経験するはずだと思っていることにかぎらない。