魂売った?ホロコーストの裏に「極限の駆け引き」 ユダヤ人リーダーが移送責任者と結んだ取引の成否

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現実に中立国への脱出はすんなりいったわけではない。

カストナーのユダヤ人たちを乗せた列車は6月にブダペストを発ち、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所へ向かう。大部分のユダヤ人はそこで数カ月間とどめ置かれている。列車に乗っていたすべてのユダヤ人がスイスへ出国するのは、ようやく1944年も暮れの12月になってからである。

おそらく戦争の経緯を、アイヒマンもナチス当局も見ていたのだろう。敗戦が避けられないとわかった時点で、西側連合国との講和を考えて、ユダヤ人を出国させたと推測できないだろうか。信じられないような話だが、講和を有利に進めるためにユダヤ人を使おうとナチス親衛隊長官ヒムラーは戦争末期考えていたから、この推測もあながち的外れではないだろう。

こうした経緯をみるとき、カストナーは少なくとも当初、ブラントが何らかの返答をもって帰ってくるのを期待していたろう。それまでにどれだけの人間を救えるか、あるいは殺戮から少しの間でも生きながらえさせるか、アイヒマンとの交渉はそこに焦点があったのではないか。

「悪魔に魂を売った」わけではないという判決

カストナーに対する最も大きな批判の1つとして、ユダヤ人に輸送の目的を教えなかった事実が挙げられていた。教えたとしても、多くの場合信じてはもらえなかったろう。

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また、情報を得て冷静に事態を受け止めた、ユダヤ人社会の中心にいた人間でも、証言の通り出国の成功率10%の見込みと考えていたように確実な保証は何もなかった。そうであれば、ワルシャワゲットーのように蜂起する可能性も小悪選択であったかもしれない。

1958年、カストナーのケースは、イスラエル最高裁判所で再度審理され、1955年の判決は覆される。最高裁のアグラナット判事は、アイヒマンとカストナーの間の取り決めを契約とはみなせないと判断している。

またユダヤ人全体を救助しようとするカストナーの動機を認め、カストナーは「悪魔に魂を売った」わけではないと判決をだした。ただしその判決は、3対2のきわどいものだった。

シンドラーの指輪に彫られたタルムードの言葉「一人を救うものは、全世界を救う」をもう一度私は考える。ハンガリーユダヤ人40万人は救えなかったが、1684名を救ったカストナーに、この言葉と指輪はふさわしくないのだろうか。

村松 聡 早稲田大学文学学術院文化構想学部教授

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むらまつ あきら / Akira Muramatsu

1958年、東京都生まれ。上智大学哲学科卒業、同大学院修了後、ドイツ・ミュンヘン大学留学。横浜市立大学国際総合科学部応用倫理学担当准教授を経て、現職。専門は近現代哲学、主に徳倫理に基づく倫理学、生命倫理などの応用倫理学。パーソン論、他者論、心身論についても研究を続けている。著書として、『ヒトはいつ人になるのか 生命倫理から人格へ』(日本評論社)、『教養としての生命倫理』(共編著、丸善出版)、『シリーズ生命倫理学2 生命倫理の基本概念』(共著、丸善出版)などがある。

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