魂売った?ホロコーストの裏に「極限の駆け引き」 ユダヤ人リーダーが移送責任者と結んだ取引の成否

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アイヒマンはドイツの軍用トラックをユダヤ人に供出させようとして、100万のユダヤ人の命と引き替えに、東部のロシア戦線で使用する1万台のトラックを提供するように、カストナーの同僚のユダヤ人指導者、ヨエル・ブラントに持ちかける。

ブラントはこの提案をもって、トルコ、イスタンブールのユダヤ人社会へと赴く。アイヒマンはドイツの敗色濃い中、ユダヤ人を介してソヴィエトを除く西側連合国と講和のための準備をしようとしていたのかもしれない。

この提案を聞いて、カストナーは、それに先行して600名のユダヤ人の国外移住をナチスに願い出る。命とトラックの交換を真剣にナチスが考えているのか、確かめようとしたらしい。こうして1944年5月に最初の「契約」が行われる。

いっこうに帰ってこないブラント

しかし、ブラントはいっこうに帰ってこなかった。ブラントはイスタンブールからカイロにまで行き、現地のユダヤ人社会と接触するばかりではなく、連合国側にも面会し、必死にトラックの供出を懇願していた。だがユダヤ人の大量虐殺も、またその代用としてのトラックの件も信じてもらえなかったのである。

こうして事態が動かず、むなしく月日が過ぎていく中、ユダヤ人の絶滅収容所への輸送が次々に行われていく。カストナーは、その間アイヒマンと何度も接触し、中立国へ移送するユダヤ人の数を600人からさらに増やそうと試みる。

アイヒマンは同意した。1943年4月から5月にかけて1カ月間続いたワルシャワのユダヤ人ゲットーと同様の蜂起が起きるのを、アイヒマンは恐れていた。ブダペストで同じく蜂起がおきれば、鉄道輸送は遅れ、自らの責任問題になる。後に「悪の陳腐さ」とアレントから形容されるアイヒマンは、力なきユダヤ人相手には怒鳴りつける男だったが、すべてを秩序に基づいて行うことに異様なまでにこだわる小官吏だった。

度重なる交渉の結果、最終的に中立国への出国許可は1684名に及ぶのだが、脱出に保証があったわけではなかった。このとき出国した1人の証言によれば、「列車に乗るかどうか、シオニズムに関わっていた叔父が、ブダペストに残れば100%死を免れない。出国のための列車に乗るならば死ぬ確率は90%だと言った」。

この証言が正しいとすれば、列車に乗った人たちは、10%の可能性に賭けていたことになる。アイヒマンが契約を履行するかどうか、実際には誰にもわからなかったのである。

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