國友さんはバンドマンの父親と介護職の母親のもと東京都練馬区に生まれました。両親はどちらも高卒だったそうです。2歳のときに、栃木県の那須に引っ越した國友さん。学校の授業に関しては「問題なく授業についていけていた」と語ります。
「3つ上の姉が優秀で、クラスでいちばん勉強ができたんです。その姉に教えてもらいつつ勉強をしていたので、気がつけば3年先の勉強を先取りしていました」
「進研ゼミ」も熱心にやっていた彼は、同級生が12名程度だった小学校と、60名程度だった中学校でずっと学年1~2位という優等生でした。ただ、将来が明るいわけではなかったようです。
「父と母の性格が合わず、喧嘩が絶えませんでした。小学校4年生のときに別居して、中学2年生のときには離婚しました。姉と私は母親のほうについていきましたが、別れるときに裁判沙汰にまでなってしまったので、母はかなり精神的に参ってしまっていました」
大変な家庭状況の中、一家は國友さんの高校進学とともに母親の生家である埼玉県の大宮に移ることを決めます。思春期の大変な時期での引っ越しは、彼自身の進路選択にも大きく影響したと言います。
「受験勉強を始める前から、引っ越すことは決まっていたので、栃木県にいながら埼玉県の志望校を選んでいたのですが、大変でしたね。栃木県と比べて学校の数が桁違いに多いですし、埼玉県の学校に対応した模試も受けられなかったので」
金髪の子も通う、校則の概念がない高校に進学
遠方の志望校を決めるのに苦労した國友さんは、東京工業大学の附属校を第1志望に設定したものの、学力的に届きそうになかったために、直前で浦和西高等学校に変更します。
なんとかここに合格して進学しますが、栃木県で暮らしていたため、埼玉県内の学校の情報を得られなかったことが、高校生活に大きく影響しました。
「志望校だったので、受かったこと自体は嬉しかったのですが、僕が入った学校は校則という概念がない、県内でも変わった高校だったんです。
制服がありませんでしたし、生徒は金髪にしてる子も珍しくない。体育祭や文化祭などの行事にも、学校側が一切関与せず、その年にやるかやらないかをすべて生徒に任せる感じでした。
埼玉県内から浦和西の自由な校風を求めて来ている子たちも多かったです。生徒数も1学年に9クラス、400人もいる環境にびっくりしましたし、自分はその中でも栃木訛りが目立ってしまっていたので、最初は居づらかったですね」
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