NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第6回は、藤原道長の父・兼家が、「孫を天皇にさせたい」と大きな野心を抱いた背景について解説する。
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革新的な花山天皇を疎んじた兼家
「何とかして花山天皇を引きずり降ろさなければならない」
永観2(984)年に即位した花山天皇の治世がスタートすると、藤原道長の父・兼家はそんな決意を新たにしたことだろう。色好みで奇行が多かったとされる花山天皇だが、即位後は革新的な政策に着手し始めた。
贅沢を禁じ、銅銭の流通を促進させて、適正な続きを得ていない荘園を整理する――。花山天皇は即位するや否や、それらの法令を次々に発出。側近として、天皇の外叔父にあたる藤原義懐(よしちか)を取り立てた(前回記事:式部の父を出世させた「花山天皇」その悲しい顛末 参照)。
関白の藤原頼忠は、ほぼ蚊帳の外に置かれたといってよい。右大臣の藤原兼家や左大臣の源雅信も面白くはなかっただろう。
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