しかし、風向きが変わってきた。
貞元2(977)年に兼通は病で死去。天元元(978)年6月から再び出仕した兼家は、8月には次女の詮子を、円融天皇に入内させている。10月には右大臣に任ぜられた。さらに、天元3(980)年には、詮子が円融天皇との間に、男の子の懐仁を出産したのだから、追い風もここに極まれり、といってもよいだろう
ついに孫の一条天皇が即位
永観2(984)年に円融天皇が退位すると、東宮だった師貞親王が花山天皇として即位。それと同時に、懐仁親王が皇太子となった。あとは、花山天皇にさえ退いてもらえれば、ついに孫を天皇に即位させることができる。
花山天皇が突然の出家によって退位したのは、兼家の3男、道兼が促したからだとされている。道兼は、愛する女御・藤原忯子を亡くして悲しみに暮れる花山天皇にアプローチして「ともに出家しましょう」と説得。いざ花山天皇が剃髪すると、自分だけ出家せずに寺から抜け出した。
当然、そこには兼家の思惑があったに違いないが、長男には汚れ役はさせられないと考えたのだろうか。兼家は孫の懐仁親王が7歳で、一条天皇として即位するのを見届けて、4年後に死去。その後は、長男の道隆があとをついでいる。
深謀遠慮を巡らして、一族の繁栄へと導いた兼家。だが、そんな兼家をもってさえも、5男の道長が藤原家で最大の栄華を誇るとは、予想しなかったことだろう。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
笠原英彦『歴代天皇総覧 増補版 皇位はどう継承されたか』 (中公新書)
今井源衝『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』 (角川ソフィア文庫)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
鈴木敏弘「摂関政治成立期の国家政策 : 花山天皇期の政権構造」(法政史学 50号)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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