式部の父を出世させた「花山天皇」その悲しい顛末 一条天皇の即位で、道長の父・兼家が権力握る

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光る君へ 大河ドラマ
本郷奏多さんが演じる花山天皇(左)(写真:NHK公式サイトより引用)
NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第5回は藤原為時を出世させた、花山天皇の悲しい顛末について解説する。
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道長も呆れるほど社交下手だった

紫式部の父、藤原為時は、漢学者として確かな素養を持ちながらも、長く官職を得られないでいた。どうも出世のためにうまく立ち回るということが、できなかったらしい。

宴に招かれながらも、終わったらさっさと帰る……。そんな為時の姿に、藤原道長がドン引きしたこともある。道長から「お前のお父さんはひねくれている」と、からまれたことを紫式部は『紫式部日記』で明かしている(記事「聡明な紫式部に父が口にした「忘れられない一言」参照)。

しかし、そんな為時にもついに転機が訪れる。永観2(984)年、花山天皇が即位すると、式部丞(しきぶじょう)・蔵人(くろうど)に任命されることとなったのである。

のちに花山天皇となる東宮の御読書始において、為時が「副侍読」についていたことが幸いしたようだ。副侍読とは、天皇や東宮に仕えて、学問を教授する学者のこと。漢学者としての地道な指導が報われたともいえよう。

そんな為時の出世のきっかけとなった花山天皇だが、常軌を逸した逸話を多く残している。一体、どんな人物だったのか。

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