第65代の花山天皇(在位984~986年)は、冷泉天皇の第一皇子として、安和元(968)年に生まれた。母は、摂政太政大臣・藤原伊尹の娘、藤原懐子である。
そもそも、父の冷泉天皇からして、奇行が多かった。皇太子の頃、1日中蹴鞠をして鞠を梁に乗せようとしたり、自身の父(花山天皇の祖父)にあたる村上天皇からの手紙の返事として、男性の陰茎を大きく描いた絵を送りつけたりしたという。
あまりに奇行が多いために、村上天皇が病床についたときに、皇位継承について反対の声が上がったくらいである。
そんな冷泉天皇の子として生まれた花山天皇は、安和2(969)年に冷泉天皇の弟、円融天皇が即位すると、わずか2歳で皇太子に即位。永観2(984)年に円融天皇から譲位されるかたちで、17歳で即位することとなった。
即位式で暴走した花山天皇
『小右記』によると、花山天皇は即位式で、いきなり奇妙な行動に出た。
「玉冠が重いので、気のぼせする」
そういうと、即位式にもかかわらず、玉冠を脱いでしまい、周囲を慌てさせたという。そうかと思えば、清涼殿の壺庭で馬を乗り回すなど、ひと時も目が離せない子供のような振る舞いをしたことが、逸話として残っている。
極めつきが、女癖の悪さである。平安時代の説話集『江談抄』では、次のようにある。
「花山院、御即位の日に、大極殿の高座の上において、いまだ剋限をふれざる先に、馬内侍を犯さしめ給ふ」
なんと即位する日、大極殿の高御座のうえで、式典の進行の合図が鳴る前に「馬内侍」という女官を「犯さしめ給ふ」、つまり、交わっていたというのだ。鎌倉時代初期の説話集『古事談』にも、同様の逸話が記されている。
即位式からいきなり暴走した花山天皇。その治世は、どのようなものだったのか。
先代の円融天皇を補佐した藤原頼忠は引き続き関白にとどまったものの、存在感は薄い。のちに挙げる法令にもかかわったあとがない。
代わりに側近として実権を握ったのは、天皇の外叔父にあたる藤原義懐(よしちか)である。もう1人、政権を補佐したのが五位蔵人の藤原惟成で、「五位摂政」と評されるほど、権勢を誇った。
『大鏡』には、2人の実力者に支えられた「花山天皇体制」について、次のように書かれている。「ただこのひと」が藤原義懐、「惟成」が藤原惟成のことである。
「花山院の御時のまつりごとは、ただこのひとのと惟成の弁としとをこなひたまひければ、いとみじかりしぞかし」
そんなバックアップ体制で、花山天皇はさまざまな法令を発布している。
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