式部の父を出世させた「花山天皇」その悲しい顛末 一条天皇の即位で、道長の父・兼家が権力握る

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永観2(984)年には受領の兼官を禁止し、兼ねていた分は他の者に任ずるか、停任させた。そのほか「諸所饗禄の禁止」や、荘園整理令などの法令も出している。

また、同年に「破銭を嫌うことの停止」も、法令として打ち出した。なにしろ、天徳2(958)年に乾元大宝という銭貨が発行されて20年以上が経過している。欠けたり、割れたりして破損した貨幣を避けようという風潮があったのだろう。破銭が貨幣の物流を妨げることのないように手を打っていた。

さらに、寛和2(986)年には、估価法(こかほう)を制定。京中を対象にして、物価安定のための施策を行っている。

効果は薄かったようだが、奇行によるインパクトが大きすぎるあまり、花山天皇の治世でさまざまな政策が行われていたこと自体が意外に思えてしまう。

前代からの天候不順が相変わらず続いており、収穫量は減少していた。花山天皇を支える藤原義懐と藤原惟成らが中心となり、経済状況を好転すべく、奮闘していたのである。

突然の出家の裏に藤原道兼の陰謀

しかし、そんな花山天皇の治世は、わずか2年で幕を閉じた。寛和2(986)年6月、花山天皇は藤原道兼に導かれて内裏から脱出すると、そのまま東山の花山寺で出家してしまったのである。

突然の出家の背景には、藤原為光(ためみつ)の娘・忯子が死去したショックがあったと伝えられている。

花山天皇がいかに忯子を愛していたか。忯子に一目ぼれした花山天皇は入内してほしいと懇願。願いが叶うと、うれしさのあまり昼も夜も寵愛したらしい。

『栄花物語』では、こんなふうに描写されている。「女御」とは「忯子」のことである。

「女御が参内なさったので、帝は心底からうれしくおぼしめして、夜も昼もそのまま、お食膳にもおつきにならず、お部屋に入ってお寝みあそばした」

寵愛の結果、めでたく懐妊するものの、忯子は死去。花山天皇の悲しみは深く「御声も惜しまず、まったくみっともないくらいにお泣きあそばす」(『栄花物語』)とあるように、悲嘆に暮れた。

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