もっとも兼家からすれば、花山天皇がどんな政治を行おうが、早々に退場してもらうつもりだったに違いない。さまざまな政略を練った兼家だが、目的はたった一つである。
「自分の孫を天皇に即位させる」
兼家の次女・詮子は天元元(978)年8月に円融天皇の女御として入内。2年後の天元3(980)年に男の子を出産する。
このときに、兼家の野心は燃え上がったといってよいだろう。兼家がそれほど出世欲に駆られたのは、その生い立ちと深く関係している。
天皇のそばで権勢を振るった藤原氏
平安時代は、延暦13(794)年に、桓武天皇が平安京に都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことをいう。
平安時代の礎を築いた第50代の桓武天皇のあと、息子の平城天皇が第51代天皇を、さらに平城天皇の弟にあたる嵯峨天皇が第52代天皇に即位する。
この桓武天皇・平城天皇・嵯峨天皇の三帝に仕えたのが、藤原内麻呂(ふじわら・うちまろ)である。つねに天皇に近侍した内麻呂は、多くの子孫にも恵まれた。藤原氏が政務を牛耳る政治的な基盤を築くことになる。
内麻呂の次男・藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、嵯峨天皇の側近として実権を掌握。その冬嗣の長男・藤原長良(ながよし)は、弟の良房や良相に出世で後れをとるものの、子女に恵まれた。長良の没後、娘の高子は清和天皇の女御となって、貞観10 (868)年にのちの陽成天皇を出産。長良は死後に天皇の外祖父となり、太政大臣の位が送られている。
そんな長良の3男が藤原基経だ。基経は、叔父・藤原良房の養子に入ると、養父を継いで、氏長者(うじちょうじゃ)となる。つまり、藤原氏の代表として、政権の首座に就くこととなった。
基経は第56代の清和天皇、第57代の陽成天皇の2代にわたって、摂政を務めている。だが、陽成天皇がどうにも乱暴者で、手がつけられなかったらしい。宮中で馬を乗り回すわ、小動物にいたずらをして殺生するわで、その暴虐ぶりに周囲は散々振り回された。
陽成天皇は病を理由に退位するが、そこには基経の働きかけがあったとみられている。その後は、光孝天皇が第58代として即位。光孝天皇を擁立した基経は、実質的に関白となり、政務を独占することとなった。
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