その後は、基経の4男にあたる藤原忠平が、第61代の朱雀天皇と第62代の村上天皇に摂政・関白として仕えている。
忠平の死後は、長男にあたる実頼が左大臣をつとめた。次男の師輔は右大臣にとどまるが、師輔の娘・安子が村上天皇の皇后となり、憲平を産む。
憲平は第2皇子だったにもかかわらず、実頼と師輔の兄弟の力によって、生後わずか2カ月で皇太子となる。この憲平親王が康保4(967)年に、第63代の冷泉天皇として即位した。
そんな冷泉天皇のもとで頭角を現したのが、師輔の3男で、のちに道長の父となる、藤原兼家であった。
兄との後継者争いに敗れた兼家
「一苦しき二」
兼家の父、師輔のことを『栄花物語』ではそんな言葉で評している。
「一」である兄の実頼が苦しくなるほど、「二」の師輔は優れていた。
それにもかかわらず、師輔は右大臣のまま、政権の座に就くことなく、天徳4(960)年に亡くなってしまう。娘が産んだ憲平親王が冷泉天皇として即位したのが康保4(967)年だから、外祖父として人生の幕を閉じることはできなかった。
そんな父を見ているからこそ、兼家は是が非でも、自分の目が黒いうちに、娘が産んだ子を天皇にしたいと考えたのだろう。
父の師輔が51歳で病死したあと、長男の伊尹が天禄元(970)年に右大臣に就任。その後、円融天皇の摂政となると、翌年には、正二位・太政大臣にまで上っている。政権の座に就いたという意味では、父・師輔の無念を晴らしたことになるが、伊尹は48歳でこの世を去る。
急死した長男の後を継いで関白となったのが、次男の兼通である。円融天皇との関係が良好だったことが、功を奏したらしい。後継者争いに敗れた3男の兼家は、兼通によって干されていく。
兼通から警戒されたのも無理はない。その頃、兼家は長女の超子が冷泉上皇との間に、皇子の居貞を産んでいた。兼家が外戚として存在感を発揮すれば、厄介である。
大納言から治部卿に降格させられた兼家。空しく自宅に引きこもり、不遇の時代を過ごすことになる。
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